がちゃがちゃと乱雑に鍵を鍵穴に差し込んで、荒々しく自宅のドアを開ける。靴は適当に脱ぎ散らかして放り投げ、よろけそうになる身体を無理矢理前に動かして、リビングのソファへと倒れ込んだ。ボスンという反動と一緒に自分の身体も少しだけ跳ね上がる。首が少し痛かったけれど、もうそんなことすら気にならない。部屋の中は出ていったときのまま。まだテーブルの上で消し忘れたキャンドルライトがゆらゆらと炎を揺らしている。その側に、この日の為に用意した小さな箱がちらりと俺の視界に映ってしまって、情けないことに涙がじんわりと溢れてきた。「……クソッ」一人きりの部屋に、情けない呟きが木霊する。何とか身体を起こして、ちゃんとソファに座り直してから、ソファの背凭れに身体を預けた。俺は今日、人生初のプロポーズに失敗した。俺にとって、唯一だった紫穂に、フラれてしまった。――いや。フラれた、というのは語弊があるかもしれない。プロポーズを断られたんだ。多分、俺の何かが駄目だった、とかじゃない。紫穂の中で、恐らく、何か納得できないことがあったんだろう。紫穂は俺に釣り合わないと言っていたけれど、泣き出してしまった彼女に、そんなことはない、と訴えることはできなかった。きっと、そこで無理に説得していたなら、紫穂はますます頑なになって、俺から遠ざかってしまっていただろう。まだ、これからいくらでもチャンスはあるさ、きっと。そう自分に言い聞かせても、どうしても精神的なダメージが大きくて、ちょっとやそっとじゃ立ち直れそうにない。ふぅ、と深く溜め息を吐いて目を閉じると、ヒュパッとテレポートを発動させる音が耳に届いた。「やぁ、ヤブ医者。女帝(エンプレス)にフラれたんだって?」「……何でお前がここに居んだよ! 兵部京介ッ!」咄嗟に身構えながらも目の前の敵は既に俺の間合いにいて距離を取ることが叶わない。何故か突然俺の前に姿を現した兵部は、聞き捨てならない台詞を吐いてニコニコと笑っていた。ぎり、と奥歯を噛みながらどうして誰も知らないはずの事実を知っているのかと内心肝を冷やす。「随分なご挨拶だな? 君が落ち込んでいるだろうと思って、僕が直接慰めに来てやったのに」「……だから、何でそんなことをお前が知ってんだ!」「そういう未来だからだよ」バベルの連中はこの未来を把握していなかったのか? と兵部は笑みを深める。兵部のその言葉に、思わず眉を顰めた。「……どういうことだ?」「君は一度、女帝(エンプレス)にプロポーズを断られる。それだけのことさ」兵部はおかしそうに笑いながら俺の質問に答える。ケラケラと不愉快な笑い声を聞きながら、俺は兵部の言葉を噛み締めた。予知された未来。嫌と言うほどに抗い続けた運命。もう既に未来は覆されたはずだ。新たな未来で俺は、俺たちはこうなる運命だったのか。く、と歯を食い縛ってその事実を受け止める。キッと兵部を睨みつければ、兵部は楽しそうに微笑んで首を傾げてみせた。「君たちが抗った未来も、今の新しい未来でも、この運命だけは覆らなかった、というだけのことさ。未来は白紙でも、その可能性まで消し去ったワケじゃないからね」「……は? 俺はあの未来でもフラれるってのか?」「あの未来じゃ、君が求婚に失敗した後、君たちは袂を分かっているんだよ? そんなことも知らないのか?」「……マジかよ」兵部に告げられた、もう無くなったはずの未来の話に身体が震える。紫穂がパンドラへ行く未来。もう消えたはずの未来が今の状況と重なって、恐ろしさが身体の底から湧いてきて。「なぁに。消えた未来の可能性の話さ。今の未来の可能性はまた別の歯車の上、ってことさ」兵部は青い顔をしている俺を見て、嘲笑うように言った。別の歯車、という言葉に少しだけホッとする。少なくとも、今すぐあの未来のようなことになるわけではないらしい。ただ、だからと言って安心できる状況なわけでもない。兵部が発した言葉をひとつひとつ拾っていくとちょっとした引っ掛かりを覚えて、眉を寄せながらも目の前の男に話しかける。「お前……さっき、俺は一度、プロポーズを断られる、って言ったな?」「……あぁ、確かにそう言ったね」「その先の未来はどうなる?」敢えて『一度』という表現をするということは、その先のことをコイツは知っているんじゃないか。そんな淡い期待を抱いてしまって、敵方なのについそんな問いかけをしてしまう。兵部は俺の質問に唇を歪めて、ニヤける口元を隠すように手を遣ってチラリと俺に視線を寄越した。「……そんなに気になるか? 君と女帝(エンプレス)がどうなるか」「当たり前だろ。知ってるのと知らないのとじゃ、覚悟が違う」「つくづく、情けない男だな。ヤブ医者」プププと笑う兵部から顔を背けて、頭をガシガシと掻いた。情けないことはわかってる。でも、気になるじゃないか。『一度』なんて含みを持たせた言い方をされてしまったら、じゃあこの次はどうなんだ、と知りたくなるのが人間だ。自分の未来を知っていると言われたら、それを教えてほしいと思ってしまうのは、きっとどうしようもない人間の性だ。「僕は、君を迎えに来たんだ」「……は?」突拍子もない話に、頭の理解が追い付かなくて、眉を寄せる。え? 確か今、俺の未来の話をしてたよね?「理解がトロいな、ヤブ医者。それであのムカつく眼鏡と肩を並べているつもりか?」「うるせぇな、ほっとけ! ていうか話があっちこっちにいってんのはてめぇだろ!」「フン……まぁいい。わからないのか? ここが君の未来の分岐点ということさ、賢木修二」にやり、と笑いながら言う兵部に、背中にヒヤリとしたものを感じる。分岐点、ということは、これから先、俺の未来は選択肢によってどうにでもなるってことで。急に期待値が上がってきた自分の未来に気分が上昇していくのを感じながらも、兵部の『迎えに来た』という言葉に首を傾げる。迎えにって、俺を?お前が?何のために?「いつしか、君は言っただろう。いつか僕の仲間になるかもしれないとね」「……そんなん言ったっけ? 俺」「それが今だと踏んで、僕はここにいるんだ」俺に向かって微笑んでいる兵部を、眉を顰めながら見つめる。まぁ、確かに、自分でもどちらかというとパンドラの方が生きやすいんだろうなぁと考えたことがないわけではない。ただ、自分は皆本の側を離れる気はないし、拒絶されたとしても、紫穂の側を離れるつもりもない。そんな俺が、紫穂にプロポーズを断られたからパンドラへ行く、なんていう選択肢は最初から存在しないわけで。「俺、パンドラなんか行く気ねぇよ」至極当然の事実を、兵部に告げる。この先、どんな未来が待っていようとも、その選択肢を俺が選ぶことは絶対に有り得ない。「フン。恋仲にフラれても、思考は正常だとでも言いたいのか?」「当たり前だ。誰が犯罪組織になんか手を貸すか」「フ……仲間になるかも、と言っていた頃の君は素直で可愛かったね」「だから、俺そんなの言ってねぇよ!」「忘れてしまっているだけさ。何なら思い出させてやろうか?」にやり、と笑って兵部が俺に近付いてくる。俺の本能とエスパーの勘がコイツと目を合わせるなと叫んでいるが、兵部の一挙手一投足から、既に目が離せなくなっていた。ゆっくりと俺に顔を近付けてくる兵部と、視線が絡む。「そう。無駄な抵抗なんかするなよ」キィン、と力が発動する音が耳に届く。兵部の目に潜む、暗い光から目が離せない。「や、めろ……」「怖がらなくていい……記憶を少し、弄るだけさ」キュルキュルと頭のハードディスクを巻き戻されるような感覚に、眉を顰める。次々と頭に浮かぶ風景に懐かしさを覚えながら、思い出したくない自分の過去がフラッシュバックして頭が痛む。ここは、どこだ。確か、そうだ。これは俺が通ってた小学校。「……そうか……お前、あの時の」「思い出してくれたかい? 少年」ふわり、と俺を誘う笑顔で兵部が俺に向かって手を差し出した。「さぁ、迎えに来たよ。賢木修二」頭を振って、無理矢理見せつけられる自分の記憶から逃れながら、力の入らない手を動かして何とか兵部の手を払う。「……あれ、は、もう、過去の話だ。今の俺は違う!」「じゃあ過去に戻ってみるかい?」「俺に何する気だ!」「さっきから言ってるだろう? 少し記憶を弄るだけさ」「なっ! クソッ! もう何かしやがったな!」「相変わらずのトロさで助かるよ。ヤブ医者」にや、と嫌な笑顔で兵部は俺を笑った。前髪をくしゃりと掴んで、自分の頭にサイコメトリーを発動する。さっきまで確かに無理矢理引き摺り出されて苦痛でしかなかった記憶の映像が、がらがらと崩れていく。自分の脳を透視しているはずなのに、一体これはどうなっているんだと驚いて兵部を見遣った。「これは……一体何が起こってる?」「君にパンドラへ来てもらうにはどうすればいいか。その答えがソレさ」「うっ……くそっ……」懸命に崩れるイメージを修復しようとしても、何かが、手から零れ落ちていくような感覚がして、全く手応えがない。その零れていく何かが一体何なのかはわからなくても、どれひとつ取りこぼしたくなくて、手のひらをすり抜けていってしまうそれらを掻き集めるように必死に手を伸ばした。崩れて零れ落ちていくそれらは全部、自分を形作る大切なもののような気がして、その大切なものを全部失ってしまう恐怖に襲われる。最後に残った、もう誰かわからない二人の後ろ姿までが、足元から崩れ始めた。「や、めろ」「生きやすいように、僕が手を貸してやると言ってるんだ。喜べよ」「ダメだ……だって、アイツは……あの子は……」アイツは、俺の特別で。あの子は、俺の唯一で。もう誰かはわからないけれど、それだけは、わかる。「俺にとって、あの子は……生きるための道だったんだ」俺を救ってくれたアイツのために、命を使う場所ばかり探してた、俺のリミッター。何をしてみせたって、あの子が俺の前に立ちはだかるから、あの子のために生きようと、生きるための選択肢を選ぶようになった。死にたがりだった俺を止められる、唯一のリミッター。「や、めて、くれ」ガラガラと音を立てて、二人の姿が消えていく。もう名前も思い出せないのに、心が苦しい。「そんなに、女帝(エンプレス)が大切か?」目の前の男が、俺に声を掛ける。コイツ、誰だっけ。それすらも、もう思い出せない。「大事なモノなら……どんな無様な姿を見せようと、手に入れてしまえばいいのに」男が、俺の目元を手のひらで覆った。何も抵抗できなくて、視界が真っ暗になる。目を閉じているのか、開けているのかもわからない。「おやすみ。賢木修二」耳元でそう囁かれた気がして、ふっと意識が遠退いた。
夢の中へ



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