あのね、明日になったらね

「今日も留守番頼むな、しほ」『え?どういうこと?』朝起きて身支度を調えている先生に頭を撫でられながら告げられた。「皆本のご機嫌取ろぅってわけじゃねぇんだけど、暫くしほは連れていかない方が、皆本の機嫌がいいかなって」だからゴメンな、と先生はもう一度私の頭を撫でて部屋から出ていった。パタン、と音がしなくなった扉を見つめてから、ベッドから軽やかに飛び降りる。そうとなれば、私は私に出来ることを考えるしかない。昨日も調べたけれど、まだ何かあるかもしれない、と先生の部屋を見渡す。昨日の時点でわかったことは、この部屋は本当に寝るためだけの部屋で、ここから出るには、私一人の力では到底無理だということ。出口はどこをどう探しても、先生が出ていったこの扉しかない。仔猫の私がどんなに知恵を絞っても、この扉を開ける方法は思い付かなかった。人間になれたらいいのに、と思っていたら、急に頭の中にいつもの声が響いた。(おっと、今は人間に戻るタイミングじゃないと思うぞ)そう言われて、はっとする。――人間に戻る?私、人間だったの?(人間に戻れるのは一度きりだ。タィミングを間違えちゃいけない)――人間に戻れるのは一度だけ?――状況を自分で判断してタイミングを見計らわないと、詰むってことね?(そろそろいろいろと思い出してきた頃だろう?素直な自分は楽しめたかい?)――素直な自分を楽しむって…どういうこと?(全て忘れて素直になった方が、猫らしくいられると思ってね。僕なりの気遣いさ)――猫らしくってことは、やっぱり私は人間だったのね?(そろそろタィムリミットだ。成功を祈るよ)会話になっているようで、たまたま会話のように成立したのであろう、頭の中の声が止んだ。今日の声の内容には驚いた。――私が人間だったなんて。きっと、先生を救うために猫になってここへ来たのね。なんて健気なのかしら。そして、なんて悲しい結末の片想いなのかしら。自分が人間なんだってわかったのに、この恋は叶わないという結末を私は知っていて。――紫穂ってどんな子なんだろう。――先生が片想いするくらいなんだもの、とても素敵な子なんだわ。ポロリと溢れそうになる涙を何とか堪えて、先程の声を思い出す。全て忘れて素直になった方が、猫らしくいられるって言っていたけれど、それは確かにそうかもしれない。先生が好きで、人の姿を捨ててまで追い掛けてくるなんて、きっと人間だった頃を忘れてないと猫らしくなんて振る舞えなかった。そして、私はきっと、紫穂って子のことも知ってる。――だって、先生が好きな子なんだから。先生のことがこんなにも好きな私が先生の好きな人のことを知らないわけがない。気付いていないわけがない。そんなのを全部覚えていたとしたら、素直に先生の飼い猫なんてやってられなかったわ。紫穂って子は、この危険な事態を知らないのかしら?私にしほって名前をつけるくらいだもの、先生にとってすごく近い存在だと思うのに。私以上に素直にならなきゃいけないのは紫穂なんじゃないの?そこまで考えて、ふう、と溜め息を吐いた。今はそんなことを考えている場合じゃない。先生の未来を変えるために、少しでも情報を整理しないと。頭の中の声の主は、そろそろタイムリミットとも言っていた。これは、状況から考えて、先生が皆本さんに殺される日も近いということを意味している気もする。――私はあと、何を忘れているんだろう?もう殆どの既知情報は出揃っているような気もするけれど、一番大切な何かを忘れている気もして。それが一体何なのかと思考を巡らせようとすると頭に霞がかかっていくということは、まだ思い出すべきタイミングじゃないってことかしら。ツキリと頭に痛みが走って、眉間に皺が寄る。とにかく、私はここで、先生の危機を回避する。それだけは絶対に、何としてもやり遂げなければならない。それにはやっぱり、現在の状況を把握するためにも先生の側にいることが一番だ。明日は一緒にいられるように、お願いしてみようかしら。そんな風に考えていると、ガチャリ、と扉の音がして、先生が暗い顔で部屋に入ってきた。記憶の中にある、明るい先生とは掛け離れた、どんよりとした表情の先生。こんな先生を見たことがなくて、思わず掛け寄って先生に触れる。『どうしたの?まだお仕事の時間でしょ?』先生は眉をきゅっと寄せて、一瞬だけ苦しそうな表情を見せて、すぐに苦笑いをしてみせる。「ああ…ちょっと、な…」荷物を置いて、ベッドに腰掛けた先生を追い掛けてベッドに飛び乗る。――私の前では無理して笑わなくてもいいのに。――強がりなの、知ってるから。私の前では無理しないで、素直な自分のままでいてほしぃ。『…皆本さんと、また何かあったのね?』先生は何も話さない。透視めばいいのかもしれないけど、それじゃあ先生の心を土足で踏み荒らすみたいで嫌だ。繊細な先生の心を傷付けたくない。強がりで、実は甘えん坊な、子どもみたいな部分を抱えたまま大人になったこの人を、私は好きになったんだ。「…おいで、しほ」先生に呼ばれて、にゃぁんと鳴きながら先生の膝に乗る。先生は泣きそうな顔で笑いながら、私をそっと抱き締めた。『私、センセイが好きよ』自然と、言葉が溢れていて。きっと、猫相手だ。伝わらない。伝わったとしても、これはもう結末の知れている一方的な片想い。この想いは、どう足掻いても、繋がらない。「…ありがとな、しほ」先生は、私をぎゅうっと抱き締めながら、震える声を絞り出した。今の私は、先生を慰めてくれる、誰かの代わりなのかもしれない。それでも、私に代用という存在意義があるのなら。誰かの代わりでもいい。先生の側にいたい。『私は、ずっとセンセイの側にいるわ』「…うん、ありがと。しほ」すりり、と私に頬擦りする先生に甘えて、私もペロリと先生の頬を舐めた。

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