「おはよう」先生の声が耳に届く。――ああ、起きなくちや。そう思って身体を動かそうともぞもぞしてみるけれど、身体が上手く動かない。「…ゴメンな。多分、まだ起き上がれないと思う」先生の大きな手が私の身体を撫でる。その暖かさがあまりにも気持ちよくて、うっとりと微睡んでしまって。喉をゴロゴロと言わせていると、ハッとして思考だけがピリッと冴えた。『…私に、なに、したの?』ぐっと身体に力を入れようにも、重たくて動かせない。瞼も重たくて、うっすらと開いているのがやっとだ。「ゴメンな。ちよっと睡眠ホルモン、弄らせてもらった」申し訳なさそうに笑う先生が、目の前に広がる。辛うじて開けた目で、先生を睨み付ける。『なんで、そんな、こと』先生が、すっと立ち上がってもう一度私を撫でる。「ゴメン。ゴメンな、しほ」『…謝らないでよ』「…どうしても、皆本の手を、しほの血で汚したくないんだ」先生が少しだけ泣きそうな、でも慈愛に満ちた微笑みで私を見ている。そっと私から離れて、先生は私に背を向けた。――ああ、先生が行ってしまう。「本当にゴメンな」背中を向けたまま眩いて、先生はドアの向こぅへと消えていった。パタン、と扉の音が耳に届く。蕩けるような睡魔が襲ってきて、目蓋を閉じる。――眠ってしまってはいけないのに。――私には、先生を救う力なんて、最初からなかったのかしら。――今、今行かないと、いけないのに。――どうして、その力が私にはないの?(今がタイミングなんじやないか?)久し振りに聞く声に、ハッと意識が覚醒する。――タイミング?何の?もうタイミング逃しちやってるわよ。(君達風の言い方で魔法を解こうか。)――魔法を解くって?そうか、私は。(三宮紫穂、解禁!)ジジッと身体に電気が走る。ハッと目を開けると、明らかに先程までとは違う視界が広がっていて。ヴヴゥンという音と共に光に包まれていた身体が表出した。(おかえり、女帝)ぐっと力を入れて、何とか身体を起こす。人間の手が視界に入って、ぱさりと肩から豊かな髪が溢れ落ちた。ボーッとする頭を振って、少しでも思考を覚醒させる。手のひらを翳して、ぎゅっと握りしめた。――そうだ、私は。――私が、三宮紫穂だ。先生が睡眠ホルモンを弄ったせいで、まだ思考がぼんやりとしているのを、太股をつねって無理矢理醒まさせる。「…なっに一人でカッコつけてんのよッ」グラグラしそうな頭を無理矢理前に向けて、先程先生が出ていってしまったドアを睨み付ける。頬をパシンと叩いて、ベッドから立ち上がり、フラフラとドアへ近付く。そのまま飛び出そうかとも思ったけれど、気付いてないカメラやトラップがあるかもしれないと思い留まって、ドアの向こう側の透視を試みる。キィンと力を発動させると、ぼんやりしていた頭もスーッと明瞭になってきた。「この辺りには何もない…」そして、先生たちもいない。――ということはつまり。「今日も訓練ね」潜入していたことである程度、ルーティンがわかっていることに感謝する。そっとドアを開けて、よろつく足を叱咤しながら廊下に出た。視界が変わっていても、訓練室へのルートは覚えてる。――大丈夫、走れる。ひんやりとした廊下の温度が直接足に伝わって、自分が裸足なことに気付いたけれど、そんなこと気にしてなんかいられない。ダッと地面を蹴って目的地へと向かって走り出した。人に戻って、もっと取り乱すかと思ったけれど、意外とすんなり状況を受け入れている自分に驚いた。――だって、いろいろありすぎた。それこそ、今思い出すと顔が真っ赤になってしまうくらいのことまで。少佐の意地悪で、素直になってみて、自覚した自分の気持ち。猫になる前なら、有り得ないと一蹴していただろうけど、自覚してしまった以上、どうあがいても受け入れるしかなくて。しかも、先生も私の目の前で私が好きだと自覚している。何だかよくわからない失恋体験も同時にしちゃってるんだから、もうこれは恋としか言いようがない。すんなりと受け入れてしまったからか、前に感じていたモヤモヤとした気持ちはもう何処にもなくて。驚くほどに心は晴れている。ヨロヨロと頼りのない足を進めながら、猫だった自分を思い返す。今考えても、正直引くくらいに素直だった。少佐の悪戯がなければ、ここまで上手く、先生の側にはいられなかったかもしれない。その点だけは感謝だ。「…着いた」上がる息を整えながら、扉に手をついてフルパワーで中の様子を透視していく。中にいるのは皆本さん、ドロシー、そして賢木先生。賢木先生と皆本さんは向き合っていて、皆本さんは手に拳銃を持っている。「俺の何処がそんなに気に食わねぇんだよ?」「だから何度も言ってるだろう?君は、スパイだ」「そうかもしんねぇけど、俺は今お前の部下同然だよ。スパイ活動は何もしていない。っていうかできねぇ」「それも何度も言っている。ロでは何とでも言えるよな?」部屋の中の緊迫感までが伝わって来て、状況の不味さを瞬時に理解する。――さあ、どうする?今は作戦参謀も居なければ、薫ちゃんも葵ちゃんも悠理ちゃんもいない。「俺はお前の力になりたい。どうすれば信用してもらえる?」「…僕だけを見ていない賢木は邪魔なんだよ」無防備な先生に向けて、皆本さんが拳銃の狙いを定めた時、考えるよりも先に身体が動いていた。ドアを勢いよく開けて、先生に力の限り飛び付く。ダァンとハンドガンの音が部屋中に響いた。私と一緒に倒れこんだ先生の襟元を掴み上げて思い切り叫ぶ。「死んでこいって言ったけど、殺されてこいなんて言ってないッ!」先生は、ポカン、と私を見上げている。あんまりにも間抜けな顔で私を見ているから、思わず眩く。「…しっかりしなさいよ、もう」「――いや、状況が全く読めねぇんだけど?」何で居るの、紫穂ちゃん、と問われて、私も目をぱちくりさせる。それもそうか、先生にとっては、私は突然現れた存在だ。状況を説明しようと、何から話すか考えている間に、チャッ、と頭に拳銃を突き付けられた。「賢木、状況を説明してもらおうか」皆本さんが、私に拳銃を突き付けているという事実に、思わず手を上げて無抵抗の態度を示す。「…説明しろっつったって、俺も状況がわかんねぇんだけど」「お前はスパイで、紫穂と繋がってたって事じゃないのか」「俺が一応スパイなのは認めるけど、紫穂ちゃんがここに来るなんて聞いてない。」「この状況でそれを信じろというのか」「…とにかく、その物騒なモンを下げてくれ」先生が、私を抱き起こしながら皆本さんに言った。私は、拳銃を突き付けられたまま、立ち上がろうと足に力を入れるけど、背中に痛みが走ってよろめいた。「…紫穂ちゃん?」先生の心配そうな声が聞こえるけれど、気になんてしていられない。何とか立ち上がって、真っ直ぐ皆本さんに向き直る。「バベルの予知セクションが皆本さんが賢木先生を撃つ予知をしたの。私はそれを回避しに来ただけよ」言っている間も、背中から力が抜けていくような感覚に襲われていた。それなのに、とにかく背中が熱い。何か熱いものを押し当てられているように、ジリジリと熱を感じて。頬に、冷や汗が伝っていくのがわかる。それが緊張のせいなのか、痛みのせいなのかわからないけれど、とにかく皆本さんに負けないように視線を返した。足を伝って、ポタリ、ポタリ、と何かが溢れていく音がするけれど、今は、とにかく、目の前の皆本さんだ。皆本さんは、少しだけ、目に動揺の色を見せている。「賢木先生を殺そうなんて、馬鹿な考えは止めてよ、皆本さん。」「紫穂ちゃんッ!、さっきの弾が当たったのかッ!」「先生は今は黙ってて!」「この状況で黙ってられるかよッ!」焦った様子の先生が、能力を発動させて私の傷口を診ている。――そうか、弾に当たってしまったのか。考えなしに行動すると、やっぱり上手くいかないものね。傷はそう深いとは思えないけれど、血を失いすぎたのか、頭がくらりと揺れる。でも、今倒れるわけにはいかない。「皆本さん、洗脳されて、本質まで変わっちゃったの?」今はもうただの悪役?そう問い掛けると、皆本さんは眉を寄せながら拳銃を下ろした。それを見て、ほっと安心したら、身体から一気に力が抜けてしまって。膝から崩れ落ちそうになるところを先生が支えてくれる。「紫穂!これぐらいの傷ならすぐ治せる!だから意識を保ってろ!」「センセ…」先生の大きな手が背中に当てられて、じんわりと暖かいものに包まれていく。熱くて堪らなかった傷の部分が、どんどん熱を取り除くように冷まされていって。緊張が解けたからかぐったりしてしまって、完全に先生の腕に身体を預ける形になった。その腕の感触は、知らなかったはずのものなのに、もう知っている暖かさになっていて、心地よさに安心して、でも何だか切なくて、涙が零れた。「紫穂ちゃん、大丈夫だから。俺が助けるから。」先生の力強い声に、ぎゅっと心が締め付けられる。――猫だった頃みたいにぎゅっと抱き締めてほしい。そうして与えてくれた安心を、今も変わらず与えてほしい。心地よすぎた猫の生活が、今の私を切なく苦しめる。「賢木、紫穂の治療が済んだら拘束しろ」「はぁっ?お前何言って」「紫穂もスパイなのには間違いない、ちょっと尋問するだけだ」ほぼ治療の終わった私の傷を撫でながら、先生は私をぎゅっと抱き締める。貧血でクラクラはしているけれど、その感触は間違いなく知っているものと違いはなくて。嬉しいのに、寂しくて、先生の腕をぎゅっと掴んだ。「…大丈夫よ、先生。私を拘束して。」その方が、皆本さんも安心できるでしよ?と唇だけで笑ってみせる。先生は納得いかない様子だったけれど、皆本さんが差し出したECM付きの手錠を見て、渋々私の手首をそっと掴んだ。「…なんでこんなことになってんだよ……」「それを知るために尋問するんだ。紫穂、大人しく従ってくれよ」「わかってるわよ。抵抗なんてする気はないわ」大人しく、されるがままに先生に手錠を掛けられる。先生は手錠の掛かった私の手首を見つめて、悔しそうに眉を寄せた。私の手を掴むその手はあまりにも優しくて。ECMが効いていて、伝わるわけないとわかっていても、先生に、大丈夫、と思念を送らずにはいられなかった。
あのね、明日になったらね



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