幸せについて本気出して考えてみた。前編

ふ、と意識が浮上して、ゆっくりと目を開ける。見慣れない天井が広がって、ここは何処だろうと首を動かしていると、視界の隅によく知る髪の毛が映った。ぼーっとする頭を何とか動かして、状況を把握しようと身体を起こすと、右手が引っ張られていることに気付いて。「…センセ」先生がベッドに突っ伏しながら私の右手を握り締めている。そうだ、私、確か先生に潜ってて。恐らく、浮上はできたけれど、そのまま意識を失ってしまったのね。そっと右手を抜いて、先生の髪をゆるりと撫でると、ぴくり、と肩を揺らして先生がゆっくりと目を開けた。「…目、覚めたか?」「…うん」優しい顔で私を見つめる先生に、じわじわと顔に熱が上ってくる。赤くなった頬を見られたくなくて、そっと俯くと、先生の手が顔に伸びてきた。がたり、と椅子の音を立てて立ち上がった先生は、私の額に手を当ててキィン、と熱を測る。「熱はなさそうだな。他の所見も特に異常なし、と」テキパキと私を診察していく先生は、お医者様の顔をしていて。ドキドキしてしまった自分がちょっとだけ恥ずかしい。最後にまた優しい顔で私の頭を撫でて、先生はベッドサイドのナースコールを押した。「…賢木だ。三宮紫穂が目を覚ました。来られるか?」はい、すぐに伺います!と明るい声が返ってきて、ブツリと通信が切れる。すぐにぱたぱたという足音が聞こえて、がらりと引戸が開かれた。「もうっ!結局、賢木先生ここで一晩過ごしたでしょう!」「しょーがねぇじゃん。紫穂ちゃんが気になってさ…」「ホントにもう…個室準備した意味ないじゃないですか!」テキパキと問診の準備を進めながら看護師が先生に向かって文句を言っている。先生も慣れた様子で軽く返事をしていて、その仲の良い雰囲気に、少し嫉妬してしまっている自分に気付く。ここは先生の職場なんだから仕方ないじゃない。ていうか、私、いつから、こんなに嫉妬深かったっけ。ツキリと痛む胸を撫で下ろしながら、先生と看護師さんの明るいやり取りをぼんやりと見つめた。「熱は36度5分。所見は特に問題なし。このまま退院で問題ない」「あら、本当に先生が居てくれるととっても楽だわ。血圧だけ測っておきましょうか。」「ああ、頼む」じゃあ、俺も退院準備してくるわ、と先生が私に笑いかけてから部屋を出ていく。それにこくりと頷いて、軽く手を振って見送った。血圧測定の準備を進める看護師さんが、クスリと笑いながら私の腕に測定器を巻き付けていく。「賢木先生、一晩中ずっと貴方の側にいたのよ?愛されてるわね?」シュコシュコと測定器を操作しながら看護師さんはニヤニヤと私に話し掛ける。何だか照れ臭くて目を反らすとフフフと笑われた。「はい、血圧も異常なし。退院して問題ありません。えっと、賢木先生と一緒に帰るんでしょう?」「あ、えっと、それは…わかりません…」そもそも、ここへは葵ちゃんのテレポートで来たから、帰る術がない。それに、昨日の今日で、先生と一緒に帰るなんて、きっと、出来ない。「まぁ、そうよね。取り敢えず、退院準備して、賢木先生を待ちましょうか」にこり、と明るい笑顔で言われて、はい、と返事することしかできなくて。部屋でお待ちくださいね、と退室していった看護師さんを見送った。退院準備と言われても何をすればいいんだろう?身一つで来たから荷物は何もないはずたけど、取り敢えず鏡の前に立ってさっと服の乱れを整える。眠っていたことで少し乱れている髪型を手櫛で整えていると、コンコンとノックの音が響いた。「はい、どなた?」「俺だ。入って良いか?」「ええ、どうぞ」からりと開いたドアから入ってきた先生は、さっきまで着ていた検査服から、昨日別れた時と同じ格好に着替えていて。どきり、と胸が震えたけれど、何とかそれを隠して先生に向き直る。「退院準備って何すればいいの?」「あー…今日の俺らの場合は書類にサインするだけかな?それより、薫ちゃんたちが一応着替え持ってきてくれてるけど、着替えるか?」先生が小さな女物のボストンバッグを私に向かって差し出して。素直に受け取りはしたけれど、首を横に振って意思を示した。「帰ってから着替えるわ。早く退院してしまいたい。」「だな。手続き済ませたら皆本呼ぶわ」先生は、私に渡した鞄を再び手に取って、部屋の外へと私を促す。促されるままに先生に着いて廊下を歩いていくと、通る職員の殆どが、先生に挨拶をしていく。先生が皆に愛されているのを体感して、でも、そんな先生は私を選んでくれたのよとほの暗い嫉妬を持て余しながら、私はそれを断ったくせにと複雑な気持ちが身の内を焦がす。先生の過去に、貴方はひとりじゃないと語りかけたけれど、私なんかが言わなくても、先生は充分理解できていたんじゃないだろうか。「紫穂、ここで手続き済ませてて」俺、皆本に電話してくるから、と先生は通話可能エリアへと足を向ける。その後ろ姿を目で追ってから、退院の手続きをするべく受付へと声を掛けた。書類のサインなどを進めていると、賢木先生が戻ってきて、隣の椅子に腰掛ける。先生と一緒になって退院の手続きを済ませていると、あっという間に皆本さんと薫ちゃんたちがやって来た。「紫穂!良かった!目が覚めたんだね!」薫ちゃんが浮遊しながら私の首に巻き付く。優しい勢いのそれに照れながら、薫ちゃんの腕を撫でた。「ちょっと、薫ちゃん!ここ、病院よ?」「えへ、ゴメンゴメン。でも、嬉しくって!」満面の笑みを浮かべる薫ちゃんが、私の肩に手を置いてゆっくりと着地する。葵ちゃんはその様子を苦笑いで見守りながら、腕を組んだ。「でも、ホンマに心配したで。賢木先生は目ぇ覚ましたのに、紫穂は目ぇ覚まさへんねんもん。」浮上に失敗したんかと思ったわ、と眼鏡の位置を直しながら葵ちゃんは呟いた。その後ろで皆本さんも優しく微笑んでいて。心配掛けてごめんなさい、と皆に向かって頭を下げた。「いいんだよ、紫穂。何ともなかったんだから。さぁ、手続きが終わったんなら、帰ろう」そう言って皆本さんが私の肩に手を置く。それを見て、先生は私に向かって優しく笑ってから立ち上がった。ごく自然な動作で手を差し出してくれた先生に、少しだけ戸惑ってから手を取って立ち上がる。嬉しそうに笑う先生に、どきりと胸が高鳴って。思わずきゅっと手を握り返した。「皆本の車で来たんだろ?わざわざありがとうな」「…え?葵ちゃんのテレポートじゃないの?」「馬鹿。退院したてなのに無理させられるか!」「そんなの…一瞬じゃない、大丈夫よ」「お前な、俺に潜って気を失ってた人間がよく言う!」「まぁまぁ、落ち着くんだ二人とも。ここ、病院だから…」皆本さんに宥められて、ハッとする。先生と、思った以上に普通の会話ができている。まるで、昨日の出来事などなかったように。車に向かって先に歩き出した薫ちゃんたちの後を追って、私たちも歩いていく。ごく自然に、恋人のように手を繋ぎながら。昨日今日のことを考えると、何も変わらないなんて有り得ないのに、まるで何も変わっていないかのように振る舞えている。これは、先生がそう振る舞ってくれているからなのか、それとも本当にこれが私たちの自然な振る舞いなのかはわからなくて、少しずつ不安が大きくなって。その不安が伝わったのか、前を向いたままの先生がきゅっと手を握り返してくれる。たったそれだけの事で、私はもう、どうしたってこの人から離れられないと思った。「紫穂ーっ、早く来ないと置いてっちゃうよーっ」車の前で私たちを呼ぶ薫ちゃんにつられて、少しだけ足を早めて皆本さんの車に向かった。先生は助手席、私は二人と後部座席に分かれて座る。離れてしまった手のひらの体温に、寂しさを覚えながら薫ちゃんと葵ちゃんに挟まれてシートに深く身体を預けた。「紫穂、病院で着替えなかったの?」車が走り出してから、薫ちゃんが不思議そうに問い掛けてきて。私は膝に抱えた小さなボストンバックを撫でてから答えた。「帰ってから着替えればいいかなって。何か面倒臭くなっちゃって」私の答えに、ふーんと意味ありげににやついた薫ちゃん。葵ちゃんも、口許に手を当ててにまにまと笑っている。「紫穂、その様子やったら、中身確認してないんやろ?」「え?うん。中見てないけど?何かあるの?」「そっかそっか!じゃあ見てからのお楽しみってやつだね!」「えっ?ちょっと、どういうこと?」「あとでわかるわ、もうちょっとで到着やしな」到着、と言われて窓の外に目を遣ると、確かに見覚えのある風景で。でも、この道は。「さぁ、着いたよ。二人とも」皆本さんがマンションのエントランスへと車を滑らせながら私たちに声を掛ける。え、二人ってどういうこと?私は薫ちゃんの家に帰るんじゃ。「皆本?紫穂の家はここじゃねぇけど?」なんか道順が俺んちに向かってておかしいなと思ったんだ、と先生がシートベルトを外して皆本さんに険しい顔を向けている。皆本さんはそれにふっと優しい笑顔を返して。「紫穂は医者でもある君に今日一日預けた方がいいと思ったんだ。それに、話をするのは早い方がいいんじゃないかと思ってね。」皆本さんの言葉に、薫ちゃんと葵ちゃんもこくこくと笑顔で頷いている。あれよあれよと言う間に薫ちゃんたちに車の外に出されてしまった。「ちょっ、ちょっと二人とも?!」「はい、ほな荷物!」「え!あの、私っ」「…あー…医者として言わせてもらうが、紫穂は今日一日家でゆっくりするのが一番だと思うんだが」そう言いながら、ドアに手を掛けたまま先生は動かない。何だかそれも複雑で、私は車の外で立ち尽くしていることしかできなかった。「君の家でもゆっくりできるだろ?それに、何かあったとき、賢木の側の方が安心だ。」「そう言うなら、皆本のマンションで皆で集まってるのが一番安心だろ」「やだなぁ、先生!そんな野暮なことできないよぉ」「せやせや!昨日の今日で募る話もあるやろしな!」「…お前らなぁ」先生が呆れたような声で呟いた。その表情は三人に向かっていて、こちらからは見えない。見慣れた後ろ姿を見つめて、複雑な気持ちになる。二人で話をしたい気持ちもあるけれど、二人きりにされるのは気を遣ってしまって嫌というか、上手く説明できない、複雑な気持ち。「ほら、紫穂が待ってるよ!先生!」「な、薫ちゃん!私別に待ってなんか…」薫ちゃんに圧されて、先生が車の中からこちらを見る。ぱちり、と視線が合ってしまって、かっと頬が熱くなる。先生は私を見て、ふっと笑って、ドアに手を掛けた。「…わかった。取り敢えず、紫穂は一日預かる。でも、何かあったらすぐに迎えに来てくれよ」今日は俺も車出せる状態とは言えないから、と皆本さんに念を押して、先生は車から降りて私の隣に並んだ。「じゃあ、賢木、紫穂を頼むよ」「ああ、わかってる」「ほな、お二人さん仲良ぉに!」「報告楽しみに待ってるからねー!」二人が後部座席から手を振っているのに手を振り返すと、車が発進して目の前から消えていく。それを二人で見送って、暫く立ち尽くしていた。「…取り敢えず、家に入るか?」疑問形で聞いてくる先生に、ぎゅっと鞄を掴んで答える。「別に、このまま、タクシー呼んで、実家に帰ってもいいのよ?」強がりを言っている自覚はある。だって、どうするのが正解かなんてわからない。二人で居たって、気が重くなるだけな気がする。でも、先生の側にいたいという気持ちも確かにあって。自分では導き出せない答えを、先生から引き出そうなんて、私は、本当に卑怯だ。先生は一瞬だけ考え込んで、そっと私の肩に手を回して、優しく抱き寄せて。「それは、嫌だ。二人で、居たい」甘くて切ない声で先生が呟いた。身体が、心が、震える。きっともう、どんなに拒絶したって、私はこの人を自分の中から追い出すことなんて、できない。「…私も、側に、居たい」何とか声に出して、先生に伝える。身体を硬くした私の肩を撫でて、先生は私の手を引いた。「俺の部屋、行くか」先生の表情を見る勇気はなくて。引かれた手をそっと握り返して着いていく。どんな顔をしているのか、どんな気持ちでいるのか、触れた手から知ることができるのに、怖くてできない。でも、心の奥底まで、触れてしまいたい。先生に手を引かれるまま、エレベーターに乗って先生の部屋へと向かう。道すがら、一言も喋らなくて、緊張感だけが高まっていって。先生ががちゃり、と鍵を開ける音が響いた。「…俺、部屋片付けるから、紫穂は適当に寛いでな」先生の言葉に、うん、と頷いて靴を脱ぐ。昨日のままの部屋が居心地悪いようで、今がタイミングだと教えてくれているようで。「待って!」先生が一番にあの小さな箱に手を伸ばそうとしたのが目に入って思わず声を掛けた。止めてどうするのか、なんて考える前に口が動いてて。先生がゆっくりとこちらに顔を向ける。その表情は、固く無表情だけど、どこか、少しだけ怯えているようで。先生は箱に手を伸ばしたまま動けないのか、箱まであと数センチという体勢で固まっている。私から何か、話さなければ。このままじゃ、きっと状況は変わらない。深く深呼吸をして目を閉じる。ぎゅっと手を握り締めて、ゆっくりと力を抜いて解いていく。一呼吸吐いても、どうすればいいのかなんてわからなくて、鞄を放り投げて先生に向かって飛び込んだ。「し、紫穂ちゃん?!」先生の上ずった声が耳に届く。未だ固まったままの先生は、恐る恐るといった様子で私の肩に手を置いた。抱き締め返してくれないことが寂しくて、ぎゅうっと力を入れて抱き締める。胸いっぱいに広がる先生のにおいに安心して、それでも少し広がる不安が拭えなくて、更にぎゅうっと腕に力を入れた。はぁ、と一度深く息を吐いてから、先生を見上げる。先生は戸惑いつつも嬉しいような、どう対応していいかわからない、という顔で私を見ていて。私はきゅっと眉を寄せて先生を見つめてから、もう一度先生の身体に顔を埋めた。「…昨日は…ごめんなさい」私のくぐもった声に、先生がぴくりと震える。先生の身体に緊張が走ったのが伝わって、思わず指先に力を入れて背中にすがった。固まっていた先生がすっと力を抜いて、私の腕をゆっくりとほどく。「…紫穂が謝ることじゃねぇよ。俺が悪かった」眉を寄せて笑ってみせる先生が、高校生の頃の笑う姿と被る。今の笑顔に人懐こさはないけれど、笑って本心を隠そうとする本質は変わっていない。だから、私はその笑顔の裏を知りたい。貴方の心に、触れたいんだ。「先生は悪くない!私の話を聞いて!」上手く伝えられないもどかしさが、強い口調になって表れる。もっと優しく言いたいのに、優しい貴方に、私も優しく触れ合いたいのに、私がまだまだ子どもだからか、子ども染みた主張の仕方しかできなくて。きっと貴方を困らせる。それでも。「私、先生が特別なの」自分の気持ちを全部伝えられる言葉があるのなら、それを使って今すぐに先生に私の想いを伝えたい。でも、そんなものはないってわかってて。貴方に触れて、貴方を知り尽くしたいと思うように、私に触れて、私を暴いてほしい。「皆大切だけど、先生だけが特別。私の特別なのよ」伝えたい想いが、視線からも伝わればいいのに。私がテレパスなら、思念に気持ちをのせられるのに。私ができるのは、暴くことだけ。先生が透視てくれなくちゃ、私の想いは伝えられない。ぎゅうっと先生を掴む手に力が入る。この手から、想いも、願いも、何もかも全部、伝わってしまえばいいのに。胸の苦しさに、眉をしかめて息を吐く。その熱さに、目頭が熱くなった。先生が、そっと私の頬に触れて、目尻にキスを落とす。その表情は、やっぱり笑顔だけれど、眉を寄せていて。「…俺、もう紫穂を泣かせることしか、出来ねぇのかな?」「っ!そんなことっ」「俺、紫穂には笑ってて欲しいんだ。欲言えば、俺の隣で」「せんせ…」「ま、今は難しいのはわかってるから」頬を撫でていた手がするりと肩に降りて、ぽんぽんと優しく叩かれる。そのまま背を向けて離れようとする先生にしがみついた。「先生が特別だって、どうすれば伝わるの?」「知ってるよ。俺のこと想ってくれてるの、ちゃんとわかってる」「わかってない!わかってないよ!先生ッ」ぎゅうっと抱きつく力を強めて、先生に向かって叫ぶ。どうしたら、どうすれば。全部先生に伝わるの?もっと知りたい。もっと知ってほしい。これは私の我儘でしかないの?「私の気持ちに、触れてよ…センセ…」すがるように、指先に力を入れて、先生の服に皺を寄せる。ふるりと震えた先生の振動が伝わって、もっとぎゅっと抱き締めた。「…サイコメトリーは、駄目だって言っただろ」「私は…先生に全部を透視てほしい。」「紫穂」「だってそんなの、先生にしかできないじゃない!私の全部を暴けるのなんて、先生にしかできないわ!」きっと先生は未だに怖いんだ。何でも見えてしまう自分の力が。私だって怖い。触れたら知ってしまえる自分の力が。でも、この力があるからこそ、今貴方に触れたいと思う。その恐怖も全部包み込みたいと思うから。同じ力を持つ私なら、貴方の恐怖をわかってあげられるでしょ。同じように貴方を暴いてあげられる。暴いて、丸裸になった貴方を、私だけのものにして、抱き締めたい。「先生のこと、もっと知りたい。知らないことが多すぎるよ…」ぎゅうっと先生を抱き締める力を強める。私とは違う男の人の身体は、私なんかの力じゃびくともしなくて。それが何だか、私には壊せない壁のように感じて、苦しい。先生がふっと息を吐いてゆっくりと私に向き直る。それから、恐る恐る私の頭に触れて、そろりと撫でた。「…俺の記憶の中で、何か、見てきたんだな?」先生は、苦しそうに眉を寄せて、私に問い掛けて。「…知らないこと、ばかりだったわ」「…男がペラペラ身の上語りなんて、カッコ悪いだろ?」「私はカッコ悪いなんて思わないわ!知らない方が、よっぽど悲しい…」「紫穂…」「私は先生に触れたい。先生はそうじゃないの?」重ならない想いが苦しい。もういっそ、先生のリミッターを取っ払って、強制的に透視ませてしまいたい。できないことを想像して、余計に苦しくなる。寄った眉の皺を延ばすように、先生が私の顔に触れた。「…いいのか?透視んじまっても。」「さっきから言ってるわ。先生になら構わない、って」先生がきゅっと眉を寄せて、私を見つめる。私はそれに、何も心配要らないのだと答えるように見つめ返した。先生は、ふっと短く息を吐いて、ぎゅっと目を閉じてから、何か決意したように私を見返した。その深い色の目には私だけが映っていて。「いいんだな?」「先生だから、透視てほしい。」「…じゃあ、取り敢えず、俺の中で何を見てきたのか、透視せてくれ」「いいのよ、一気に全部透視てくれても」先生がひゅっと息を呑む音が聞こえる。一瞬瞳が揺れて、目に映る私の姿も揺れた。「…怖ぇんだよ、好きな女に触れるのは。心の準備くらいさせてくれ」ぎゅっと頭から先生に抱き込まれる。全身を包まれるように抱き締められて、それに答えるように私も先生の背中に手を回した。いくぞ、と耳許で小さく呟かれて、先生が力を発動させる。私は意識を集中して、高校生の先生とのやり取りを思い出していた。暫くして、先生がふっと抱き締める力を弛めて私から一瞬離れて、またぎゅうと抱き締められた。「…高校生の俺、口軽いなぁ」「…ずっと黙ってるつもりだったの?」「いや、そういう意味じゃなくて。然るべきタイミングで、全部話すつもりだった。」人によっちゃ重いと感じる話だからさ、と先生は軽い口調で話している。確かに、私も、何気無い日常で知ることになっていたのなら、びっくりして重いと感じていたかもしれない。でも今なら、先生の全てを受け止めたいと思う今なら、全部話してほしいし、全部聞かせてほしい。「何から聞きたい?」「え?」「俺の身内のこと、知りたいんだろ?」今は充分そのタイミングだろ、と言って、先生は私の手を引いてソファへと導いた。私は導かれるままに先生の隣に腰かける。先生は私の手を繋いだまま、身体をこちらに向けてソファに身体を預けた。「…先生のご両親は、亡くなってるの?」きゅっと胸が痛くなるのを感じながら、先生に問い掛ける。私が胸を痛めるのは筋違いだとわかっていても、どうしても痛みが走ってしまう。先生は淡々とした表情で、私に答えてくれた。「お袋は、小学6年生の時に、ガンで。親父は知らねぇ。俺がガキの頃に離婚したらしいから。」知らされる事実にドキリと心臓が震える。ちゃんと身構えていたはずなのに、先生の口から出た言葉の衝撃に思わず身体に力が入った。先生は私の緊張を解すように、優しく手の甲を親指で撫でる。先生の優しさに甘えながら、何とか甘えすぎないように自分を奮い立たせる。「…じゃあ、お母様が亡くなられてから、お祖父様と暮らしてたの?」「あー…お袋は離婚してからじぃさんと一緒に暮らしてたから。じぃさんとはガキの頃から一緒だよ。ちなみにばぁさんは俺が産まれる前に亡くなってるから、知らない。」「…そう、なの。」「もっと言うと、じぃさんも高2の時に急逝したから、そっから俺は皆本曰く、天涯孤独ってやつ。」にっと笑う先生は、本当に何とも思ってないようで。私だけが衝撃を受けて、重たく事実を受け止めている。先生は、一体どれだけの強さで、全てを乗り越えてきたの?「…ほら、空気が重くなっちまうだろ?だから、あんまりこの話は…」「そんなことない!これも大事な、先生を構成する大事な話よ。私は全部受け止めたいの!」「…紫穂」「まだ聞きたいことあるわ。どうして、あれから医者になろうって思えたの?」「あー…それは結構、単純だぜ?」がしがしと頭を掻きながら、先生は首を傾げた。言い渋っているのが何となくわかって、先生の手を引っ張って言葉を促す。「じぃさんが死んだときにさ、俺の力があれば、救える命があるんだって意味がやっとわかったんだ。」ふぅ、と息を吐き出しながら、先生は続ける。「お袋のガンも、見つかった時はもう末期でさ。俺が力を使いこなせてたら見つけられたかもしんねぇんだよな。だから、悔しくて。じぃさんが言うように、この力を活かせる医者になりたいって思ったんだ。」結構単純だろ、と言う先生は、相変わらず笑っていて。先生は本当に、過去を乗り越えて笑っているんだと気付いて、何だか抱き締めたくなった。そっと手をほどいて、ソファに乗り上がって先生の頭を胸に抱き込む。抵抗せずに受け入れた先生は、私の腕をぽんぽんと安心させるように叩いていて。どこまでも子どもでしかない自分が、本当に悔しい。先生を受け止めることしかできない自分が、本当に悔しい。ゆっくりと先生を解放して、ぺたりとソファに座り込む。私は何を返せるだろう。大人の先生に、子どもの私が、一体何をしてあげられるんだろう。全部全部さらけ出して、先生が好きだよって伝えれば、先生に全部伝わるだろうか?「…じゃあ、今度は私の番ね」先生が私の言葉に目を見張る。そっとリミッターを外そうとすると、先生が慌てて私の手を止める。「紫穂の方がレベル上なんだから、リミッター外されたら敵うわけねぇだろ」「そんなことないわよ。先生もリミッター外せばいいだけじゃない。」「そりゃそうだけど…皆本に怒られる」「今日くらい許してくれるわ。というか、一緒に怒られましょ?」「…あーくそッ!後でどうなっても知らねぇからな!」先生が乱暴に首元に手をやってネックレス型のリミッターを外す。リミッターをサイドテーブルに置いたそのままの手で、私の両手に指を絡めた。「本当にいいんだな?」「…好きなだけ、ダイブして」「…いいんだな?」「私の初めて、貰ってちょうだい?」私の言葉に、先生が震えた。もう知らねぇ、と呟いて、先生はゆっくりと私に近付いて触れるだけのキスを落とす。キィンと力が発動して、先生が私に潜っていく。ああ、この感覚を、永遠に覚えていたい。きっと、私たちにしか感じることのできない、心を解き放つような感覚。お互いの心そのものに触れ合って、抱き締めあうような、心地よさ。「紫穂」先生が唇に触れたままで、私の名前を呼ぶ。角度を変えて、何度も口付けながら、先生は私の心に触れていく。好き。好きよ、先生。私の一番大事な気持ち、もっと触って、触れて、感じてほしい。一生懸命先生のキスに応えていると、かぷりと食むように口付けられてから、先生が熱い吐息と共に離れていく。コツリとおでこを合わせて、蕩けるような笑顔で笑って。「俺だって、紫穂が特別だぞ?」「…うん」「紫穂なしじゃもう生きてけない気がする」「…うん」「…俺と、家族になって」「もちろんよ!」手を絡め合ったままなのも気にせずに、先生の胸に飛び込む。勢い余って、ソファに二人で倒れ込んだ。先生を押し倒すような形のまま、先生に乗り上げてキスをする。私からの慣れないキスは、がちりと歯がぶつかる音がして。でもそんなの気にならないくらい、感情が高ぶっている。嬉しい。ただひたすらに、嬉しい。この気持ちも、全部透視んでくれている?「ちゃんと、全部、伝わった?」「…ああ。今、すっごく嬉しいって思ってくれてるのも、ちゃんと伝わってるよ」「嬉しい。だって嬉しいんだもん。」「…ああ。俺も嬉しい。」わかるか?と先生に言われて、私もキュンと力を発動させる。先生の手から、弾むような、それでいて穏やかなあたたかい気持ちに触れて、共鳴したような感覚に支配される。何これ、こんなの、こんな悦び、私は知らない。先生も、これを感じてくれている?にこりと笑って私の疑問に答えてくれた先生に感極まって、熱くなる目頭を抑えられなくて、ぎゅっと目を瞑ったら涙が溢れた。先生が身体を起こして、ちゅ、ちゅ、とキスで涙を吸っていく。ゆっくりと手をほどかれて、ぎゅうっと力一杯抱き締められた。「俺と、結婚してくれる?紫穂」耳許に、もう一度吹き込まれて、私はこくりと頷くしかできなかった。嬉しすぎて、苦しい。どうしようもなく、嬉しくて。ぎゅうっと先生の背中にすがった。「…ちょっといいか?」「…?…うん」先生が身体の上から私を降ろして、離れていく。ダイニングテーブルから戻ってきた先生の手には、あの、小さな箱。「今度は受け取ってくれよ?」先生は少し震えた声で言いながら、私の前にしゃがむ。「当たり前じゃない!」先生の両手に包まれたそれを受け取って、リボンを解いた。箱を開けると、実物は初めて見る、何が入っているかよく知っている箱が出てきて。震える手で、そっと開くと、キラリと光る石のついた、キラキラの、指輪。それを見て、私はまた涙が溢れた。「着けてくれる?」涙で震える声で伝えたら、こくりと頷いた先生が箱から指輪を取り出して、私の左手薬指にキスを落とす。もう、この細かい震えは、どちらのものかわからない。それでも何とか、指輪を嵌め終わって、二人で同時に息を吐いた。それが何だか可笑しくて、二人で涙を溢しながら笑い合って。「俺、今すっげー幸せ」先生は泣きながら笑って。「わたしもよ」私も泣きながら笑って答えた。

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