夢の中へ。

自宅のドアを開けて、適当に靴を脱いで放り投げ、リビングのソファへと倒れ込む。ボスンという反動と共に自分の身体も少しだけ跳ねて、首が少し痛かったけれど、そんなことすら気にならない。部屋の中は出ていったときのまんま。まだテーブルの上では蝋燭がゆらゆら揺れている。その側に、この日の為に用意した小さな箱がちらりと視界に映ってしまって、情けないことに涙がじんわりと溢れてきた。「…クソッ」一人きりの部屋に、情けない呟きが木霊する。何とか身体を起こして、ちゃんとソファに座り直してから、深く身体を預けた。俺は今日、人生初のプロポーズに失敗した。俺にとって、唯一の紫穂に、フラれてしまった。いや、フラれた、というのは語弊があるか。プロポーズを断られたんだ。多分、俺の何かが駄目だった、とかじゃない。紫穂の中で、何か納得できないことがあったんだろう。紫穂は俺に釣り合わないと言っていたけれど、泣き出してしまった彼女に、そんなことはない、とは言えなかった。きっと、そこで説得していたら、紫穂はますます頑なになってしまっていただろう。まだ、これからいくらでもチャンスはあるさ、きっと。そう自分に言い聞かせても、どうしてもダメージの方が大きくて、ちょっとやそっとじゃ立ち直れそうにない。ふぅ、と深く溜め息を吐いて目を閉じると、ヒュパッと誰かがテレポートしてきた音が耳に届いた。「やぁヤブ医者。女帝にフラれたんだって?」「…何でお前がここに居やがる、兵部京介ッ」俺の目の前に現れたのは、兵部だった。しかも、何故か誰も知らないであろう事実を知っている。「随分な挨拶だな。君が落ち込んでいるだろうと思って慰めに来てやったのに」「だから、何でそんなことをお前が知ってんだ!」「そういう未来だからだよ」バベルの連中はこの未来を把握してなかったのか?と笑いながら兵部は言う。「…どういうことだ?」「君は一度、女帝にプロポーズを断られる。それだけのことさ」兵部はおかしそうに笑いながら続ける。その様を見ていることしかできなくて、俺は兵部の言葉を噛み締めた。予知された未来。嫌と言うほどに抗い続けた運命。もう既に未来は覆されたはずだ。新たな未来で俺は、俺たちはこうなる運命だったのか。「君たちが抗った未来も、今の新しい未来でも、この運命は覆らなかったというだけさ。」「…は?俺はあの未来でもフラれるってのか?」「あの未来じゃ、君が求婚に失敗した後、君たちは袂を分かっているね。」「……マジかよ」兵部に告げられた、もう無くなった未来の話に身体が震える。紫穂がパンドラへ行く未来。もう消えたはずの未来が今の状況と重なって、恐ろしさが身体の底から湧いてくる。「なぁに。消えた未来の話さ。今の未来はまた別の歯車の上さ」兵部は青い顔をしている俺を見て、嘲笑うように言った。「お前、さっき、俺は一度、プロポーズ断られるって言ったな?」「…ああ、そう言ったね。」「その先の未来はどうなる?」「フッ…そんなに気になるか?君と女帝がどうなるか。」「当たり前だろ。知ってるのと知らないのとじゃ、覚悟が違う」「つくづく、情けない男だな。ヤブ医者」クスクスと笑う兵部を横目に見ながら、頭をガシガシと掻く。情けないことはわかってる。でも、気になるじゃないか。一度、なんていう含みを持たせた言い方をされては、じゃあこの次はどうなんだ、と想像してしまうのが人間だ。未来を知っているというのなら、教えてほしいと思うのが、どうしようもない、人間の性だ。「僕は、君を迎えに来たんだ。」「……………は?」突拍子もない話に、頭の理解が追い付かない。え、今、確か、俺の未来の話をしてたよね?「理解がトロいな。ヤブ医者」「うるせぇな、ほっとけ!ていうか話あっちこっちにいってんのはてめぇだろ!」「フン…まぁいい。わからないのか?ここが君の未来の分岐点ということさ、賢木修二」にやり、と笑いながら言う兵部に、背中にヒヤリとしたものを感じる。分岐点、ということは、これから先、俺の未来は選択肢によっちゃあどうにでもなるってことで。急に期待値が上がってきた俺の未来に気分が上昇しながらも、兵部の迎えに来た、という言葉に首を傾げる。迎えにって、俺を?お前が?何のために?「いつしか、君は言っただろう。いつか仲間になるかもしれないとね」「…そんなん言ったっけ?俺」「それが今だと踏んで、僕はここにいるんだ」まぁ、確かに、自分でもどちらかというとパンドラの方が生きやすいんだろうなぁと考えたことがないわけではない。ただ、皆本の側を離れる気もなけりゃ、紫穂の側を離れる気もない俺が、パンドラへ行くなんていう選択肢は最初から無しな訳で。「俺、パンドラなんか行く気ねぇよ」至極当然の事実を、兵部に告げる。この先、多分、どんな未来が待っていようとも、その選択肢を俺が選ぶことはない。「フン。恋仲にフラれた癖に、思考は正常だとでも言いたいのか?」「当たり前だ。誰が犯罪組織になんか手を貸すか。」「フッ…仲間になるかも、と言っていた頃の君は素直で可愛かったね」「だから、俺そんなの言ってねぇよ!」「忘れてしまっているだけさ。何なら思い出させてやろうか?」にやり、と笑って兵部が俺に近付いてくる。俺の本能とエスパーの勘がコイツと目を合わせるなと叫んでいるが、兵部の一挙手一投足から、目が離せない。ゆっくりと俺に顔を近付けてくる兵部と、視線が絡む。「そう。無駄な抵抗はよせよ」キィン、と力が発動する音が耳に届く。兵部の目の奥の、暗い光から目が離せない。「や、めろ…」「なに…記憶を少し、弄るだけさ」きゅるきゅると頭のハードディスクを巻き戻されるような感覚に、眉をしかめる。頭に浮かぶ風景に、懐かしさを覚えながら、思い出したくない自身の過去に頭が痛む。ここは、どこだ。確か、そうだ。これは俺が通ってた小学校。「そうか、お前、あの時の!」「思い出してくれたかい?少年」ふわり、と俺を誘う笑顔で兵部が手を伸ばす。「さぁ、迎えに来たよ。賢木修二」すぐそこまで近付いてきた手を何とか払って、兵部の誘惑から何とか逃れる。「あれはもう過去の話だ。今の俺は違う!」「じゃあ過去に戻ってみるかい?」「俺に何する気だ」「さっきから言ってるだろう?少し記憶を弄るだけさ」「なっ!クソッ!もう何かしやがったな!」「相変わらずのトロさで助かるよ。ヤブ医者」にや、と嫌な笑顔で兵部は俺を笑った。前髪をくしゃりと掴んで、自分の頭にサイコメトリーを発動する。がらがらと記憶が崩れていくイメージが見えて、驚いて兵部を見る。「これは…一体何が起こってる?」「君にパンドラへ来てもらうにはどうすればいいか。その答えがソレさ。」「うっ…くそっ…」何かが、手から零れ落ちていくような感覚。何かはわからなくても、そのどれもを取り零したくなくて、何かをかき集めるように必死に手を伸ばす。それらは全部、俺を形作る大切なものの気がして、失ってしまう恐怖に襲われて。ふと浮かんだ、誰かはもうわからない二人の後ろ姿が、足元から崩れていく。「や、めろ…」「生きやすいように、僕が手を貸してやると言ってるんだ。喜べよ」「ダメだ、だってアイツは…彼女は…」アイツは、俺の特別で。彼女は、俺の唯一で。誰かはわからないのに、それだけは、わかる。「俺にとって、彼女は、生きるための道だったんだ」俺を救ってくれたアイツのために、命を使う場所ばかり探してた、俺のリミッター。彼女がいるから生きようと、生きるための選択肢を選ぶようになった。俺を、止められる、唯一の、リミッター。「やめて、くれ…」ガラガラと音を立てて、二人が消えていく。もう名前も思い出せないのに、心が苦しい。「そんなに、女帝が大切なのか?」目の前の男が、俺に声を掛ける。コイツ、誰だったっけ。それすらも思い出せない。「なら、僕が手を貸してやろう」男が、俺の目元を手のひらで覆う。何も抵抗できなくて、視界が真っ暗になる。目を閉じているのか、開けているのかもわからない。「おやすみ。賢木修二」耳元でそう囁かれた気がして、意識が遠退いた。

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