「大丈夫か?玄関まで送るか?」帰り道、私たちは無言だった。というより、お互い、何と声を掛ければいいのかわからなかった、というのが正解かもしれない。涙は落ち着いたけれど、ふと気を緩めるとまた溢れてしまいそうで、私はずっと俯くことしかできなかった。そんな私でも、先生は最後まで優しくて。身動きできずにいた私の手を取って、結局玄関まで送ってくれた。「…抱き締めても、いいか?」先生の掠れた声が、耳に届く。その資格があるのかどうかわからないけれど、私は先生の服の裾を掴んで、そっと頷いた。恐る恐る、先生が私の肩に触れて、ゆっくりと抱き締められる。きゅうと締め付けられるその腕の感触に、私の心臓まで締め付けられていくようで、苦しい。また溢れてしまいそうな涙を、目をぎゅっと瞑って耐えしのぐ。それでも、溢れてくる涙が一筋、頬を伝って。先生が唇で吸い取ってくれる。その感触があまりにも甘くて、優しくて。そんなに優しくされたら、すがってしまうのに。止めて、とは言えない。「ゴメン。引き止めて。」そっ、と先生が離れていく。その表情は穏やかで。玄関先の温かい灯りが、先生の顔をほんのりと照らしている。穏やかなのに、先生がひどく遠くに感じて、手を伸ばしそうになったのを、ぎゅっと堪えた。「じゃあな。また明日」先生が、私の頭を撫でて去っていく。いつもみたいに振り返って手は振ってくれない。私たちに、明日はやってくるの?声にならない疑問を先生の背中にぶつける。先生はそのまま車に乗り込んで、私の方をちらりとだけ見た。優しく笑って、直ぐに前を向いてエンジンを掛ける。このままじゃ、行ってしまう。引き留める権利もないのに。でも、いつまでも見ていたくて。先生の車が見えなくなるのを、ただ、じっと見守ることしかできなかった。暫く立ち尽くしていると、ガチャリ、と玄関の開く音がして、振り向くと、薫ちゃんがドアから顔を出していた。「あれ、紫穂じゃん。今日は早いね」車の音がしたのに、何も起きないから思わず覗きに来ちゃった、と薫ちゃんがサンダル履きで近付いてくる。私はそれに、何も答えることができなくて、笑えているかわからない笑顔を返した。「って、うぇっ?どしたの?泣いてるのっ?」暗がりの中でも、私の酷い顔を隠すことはできなかったのか、薫ちゃんがパタパタと私に駆け寄る。心配そうに覗き込んでくる薫ちゃんに、やっと唇が動いた。「…かおるちゃん」声を出した途端、ポロポロとまた涙が溢れてきて、顔を伏せる。零れ落ちる涙が、ポタポタと、地面に染みを作っていく。「えっ、ちょっ、ちょっ、取り敢えず家に入ろう!」薫ちゃんが私の背中を押してドアへと向かう。私はされるがまま、家の中へと入った。玄関には葵ちゃんも来ていて、私の顔を見てビックリしている。「紫穂!どないしたんや!」私の様子に動揺している二人に連れられて、リビングへと向かう。明るくて広いリビングが、私のせいでしんとした沈黙に包まれる。「今日、先生とご飯って言ってなかった?何かあったの?」薫ちゃんに促されるまま、ソファに腰掛ける。二人は私の手を一つずつ掴んで、私を挟むようにソファに座った。「せや、出掛けは先生とご飯やっていうてウキウキやったやん?」葵ちゃんの問い掛けに、出掛ける前の自分を思い出してしまって、今との落差にまた涙が零れそうになる。既に決壊している涙腺は、簡単には涙を堪えてくれなくて、はらはらと泣き出してしまった。「紫穂、大丈夫か?先生と何かあったんか?」「黙ってちゃわかんないよ、紫穂ー…」背中を擦ったり、頭を撫でたりしてくれる二人に甘えて、身を委ねる。零れる涙を拭ってくれる先生はもういなくて、自分で目許を拭うしかない。「あ、ダメダメ!明日、目が真っ赤に腫れちゃうよ!」「ウチ、タオル持ってくる!」わたわたと二人が慌てて動き出したのを見て、少しだけ気持ちが反れてくれる。葵ちゃんからタオルを受け取って、そっと目許を覆う。「ありがと…あおいちゃん」「そんなん構へん。それより、一体何があったんや?」「………あの、あのね」話し出そうとすると、また涙が溢れて喉が詰まる。ただ、今日あった出来事を話せばいいだけなのに、何故か、上手くできない。「…よし、皆本を呼ぼう!」「…せやな、ウチラじゃお手上げや…」薫ちゃんが皆本さんに電話をして、葵ちゃんがすぐにテレポートして目の前から消える。ほんの一瞬の間を置いて、皆本さんと共に葵ちゃんが戻ってきた。皆本さんは私の様子に驚いて目を見開いているけれど、すぐに冷静になって私の前に膝まついた。「紫穂、まずは深呼吸しようか。」皆本さんの吸って、吐いて、というゆっくりな指示に従って、繰り返し呼吸を整える。やっと深く息を吸えるようになった頃、ようやく涙が止まってくれた。「薫、紫穂に水を持ってきてくれないか」「わかった!」「葵は氷水と手拭いを用意してくれ。紫穂の目許を冷やしてやりたい」「わかった!任せとき!」皆本さんの的確な指示に、二人はパッと行動する。あっという間に私のケアセットが整って、私は薫ちゃんから受け取った水をゆっくりと口に含んだ。「紫穂、大丈夫かい?」「…ええ、皆本さん、ごめんなさい。」「いいんだよ。それより、賢木と何かあったのか?」今日は二人で約束してたはずだろう?と皆本さんが核心を突いてくる。幾分落ち着いた今なら、何とか、話せるかもしれない。「先生が…」「賢木が?」「………結婚、しよう、って」そこまで言って、また喉が詰まるような感覚に襲われて、涙が溢れてきた。薫ちゃんが慌てて私の隣に座って背中を擦ってくれる。タオルで顔を覆って、薫ちゃんに合わせて再び呼吸を整える。「…その様子だと、良い報告、というわけではなさそうだね?」皆本さんが恐る恐る、私に問い掛ける。私はそれに、頷くことも、何か声を発することもできなくて、タオルに顔を埋めたまま。他の二人も、何か察したのか、固唾を飲んで私を見守っていた。何とか、喉のひきつる緊張を弛めるように深呼吸をして、タオルから顔を上げる。「…私じゃ、先生に、釣り合わない」皆本さんは、私の言葉を眉を寄せながらも真剣に聞いてくれていて。他の二人はビックリとでも言いたいのか零れんばかりに大きく目を見開いて私を見ている。「いや、いやいやいや、紫穂が先生に釣り合わないとか有り得ないでしょ!」「そ、そうやわ!あんなにお似合いでラブラブやったやん!」二人とも、驚きを隠すこともなく口々に私に迫る。そんな二人を制するように手を翳して、皆本さんは私に言った。「紫穂、君は君なりの考えがあって、賢木のプロポーズを断ったんだね?」皆本さんの言葉に、こくり、と頷いて答える。「私、先生を一番にしてあげられない」詰まらずするりと出てきてくれた言葉が、私の背中を押したのか、どんどん口が動き出す。「私、薫ちゃんが大事。皆本さんが大事。葵ちゃんも大事。皆、私の大事。先生だって大事だけど、誰かを選ぶなんてできない」だって皆が大切だから。皆とずっと一緒にいたいから。「薫ちゃんと皆本さんがお付き合いすることになって、私、一人になっちゃったみたいで寂しかった」今だって寂しい。薫ちゃんが当然のように皆本さんに頼って、皆本さんもそれを受け入れているのを見て、やっぱり特別なんだなって思う。私の入れない境界ができてしまった、と感じてしまう。「先生は、私のその寂しさを埋めたいって言ってくれたけど、私は先生一人を唯一になんて、できない。先生の想いに釣り合えない!」私の叫びを、三人は淡々と聞いてくれている。ぽろりとまた溢れた涙をタオルで拭うと、皆本さんがそっと頭を撫でてくれた。それがいつもの感触じゃないことに、少し寂しくなって、またぽろりと涙が溢れる。「私と皆本がお付き合い始めたからって、何も変わることなんかないよ?」寂しいことなんて何もない、と薫ちゃんが私の手を握って告げる。そう、頭ではそう理解している。でも、心がついていかない。「わかってる。二人がお付き合いを始めて、私、本当に嬉しいのよ。でもね、私の入れない世界ができた気がして、寂しいの」ゴメンね、薫ちゃん、と薫ちゃんの手を握り返す。本当に、こんな我儘で、子どもじみたことで嫌々言ってごめんなさい。皆を巻き込んで、ごめんなさい。「紫穂の考えは、つまり、賢木を特別にできないから、結婚できないってことかい?」皆本さんが、私の言葉を纏めてくれる。それに私はこくりと頷いて返事をした。「だって、先生は私を唯一の存在にしたいって。私にはそれが出来ない。それじゃ、先生に釣り合えない」だから、結婚できないよ、と涙声で呟く。同じ想いを返せないのに、結婚だなんて、考えてはいけない。あの人の、隣に立つことなんて、できない。溢れてくる涙をタオルに吸わせていると、葵ちゃんがふぅと大きく溜め息を吐いた。「紫穂、アンタ、先生のこと意識し始めた切欠覚えてる?」「…意識、し始めた、切欠…?」「そうや。目に見えて、先生のこと意識し始めたやろ、あのときから。」頭をくるくると回して、先生との思い出の引き出しをひっくり返していく。そうだ、確か、あれは。先生にお説教されて、成り行きでオペの手伝いをすることになった、あのとき。皆本さんとは違う、大人の言葉が胸に刺さって、言い返しはしたけれど、嫌だとは感じなくて。自分の中にストンと落ちてきて、染み込んでいった言葉たちと、医者として、大人として、いろんなことと向き合う先生を見て。私の心の中に、先生が現れた。「紫穂、アンタあの頃から、充分先生のこと特別扱いやと思うで」「え?」「ウチラとは違う、特別枠や。そこには、ウチラも入られへんねんで」紫穂だけの世界や、と葵ちゃんは苦笑いを浮かべて言った。「そうだよ!私も、あの頃、先生に紫穂を取られた感じがして凄く悔しかったんだ!」薫ちゃんも、その頃の気持ちを思い出したかのように眉を寄せて叫ぶ。「そんな…私は今でも薫ちゃんが大好きよ?」「そんなの知ってるよ!でもね、紫穂と一緒で、寂しかったんだよ」「え?」「だって、私たちずっと三人きりだったでしょ」その中に他の誰かが入るなんて、考えられなかった、と薫ちゃんは呟いた。小さな頃の、頑なだった私たち。皆本さんに出会って、世界が広がった。いろんな人に出会って、どんどん世界が広がって、その中に先生が居て。私たち以外はどうでも良かった風景が、先生の周りだけ色付き始めて、私に恋を教えてくれた。ああ。今になって気づく。頭を撫でて欲しいのは。迎えに来てほしいのは。側にいてほしいのは。私を抱き締めてほしいのは。当たり前のように、私の隣にいてほしいのは。先生だけなんだわ。ぽたり、と涙が落ちる。もう、充分、先生が、私の、私だけの特別。「…答えは、出たみたいだね。紫穂」皆本さんがやんわりと私に笑い掛ける。私はそれにゆっくりと頷いて、しっかりと顔を上げた。「もう一度、賢木と話し合えるかい?」「ええ。もう大丈夫よ。皆本さん」濡れた目尻をタオルで押さえてから、にっこりと笑ってみせる。もう大丈夫。今なら自信を持って、先生のことを特別だと言える。一度断ってしまったプロポーズ。先生が受け入れてくれるまで、話をするしかない。先生の優しさに漬け込まないように、私の言葉で、私の想いを先生に届けたい。ああ見えて臆病な先生が、自分を誤魔化さずに私に向き合ってくれるだろうか。誰にでも優しくて、私には飛びきり優しくて、自分には優しくない、大切な人。そんな人につけてしまった傷を、私は癒せるだろうか。後悔しても仕方がないし、今は前を向くしかない。駄目だったら、駄目だったで、その時考えればいい。長期戦になったって構わない。とにかく、先生の本当の心に触れられるまで、私は頑張るしかない。「そっか…紫穂が結婚か」「せやな、いつかそうなるとは思ってたけど、こないに早いとはな。」「そうだ、皆本!皆でお祝いしようよ!」薫ちゃんたちの明るい声が部屋に響く。先程までの深刻さが取っ払われたように、部屋の中も明るくなった気がした。その様子に皆本さんはにこりと笑って、私たちを見つめている。「そうだな。でも…僕はちょっと賢木が心配だ。」ちょっと電話してもいいかい、と皆本さんは立ち上がって携帯を取り出す。さっと私たちの輪から離れて、電話をしている皆本さんの背中を目で追った。今頃は、もう既に家に帰り着いている頃だろうか。それとも、何処かドライブへ出掛けてしまっているだろうか。お願い、早く電話に出て。先生の無事を確認したくて、皆本さんの電話の様子をじっと見守った。長いコール音の後、やっと先生に繋がったのか、ホッとしたのも束の間、皆本さんの緊迫した声が聞こえてくる。「どうして賢木のプライベートの電話にお前が出るんだ!兵部ッ!」状況が理解できないけれど、とてつもなく嫌な予感がして、氷水を被ったみたいに身体の芯が冷えた。
三年目の浮気。



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