三年目の浮気。

数日後、先生の家にお呼ばれして一緒に晩御飯を食べていた。珍しく先生お手製の豪勢な食卓に、どうしたの、と聞くと、元気のない紫穂ちゃんを元気付けたくて、と賢木先生が笑った。「美味しい…けど、大変だったんじゃない?こんなに作るの」「今日は昼からオフだったから、そうでもねぇよ」何でもない風に笑顔を見せる先生だけど、どう見ても手の込んだ料理の数々に、一体どうしたのかと疑問が湧いてきて仕方がない。「元気付けるって言っても…これじゃ何かの記念日よ?」「あー…まぁ、気にせず食えよ。それとも俺の手料理は口に合わない?」「そうじゃなくて…」「皆本には負けるかもだけどさ。俺も料理には自信あんだぜ?」「知ってるわよ!今まで何度もご馳走になってるし、今日だってレストランで食べてるみたいに美味しいわ」そう、決して箸が進まないわけじゃないのだ。ただ、急にこんな御馳走を用意されてちょっと驚いているだけで。私が元気ないからってここまでしてくれるのが、少し申し訳ないというか何というか。「本当に、美味しいのよ?ただ、ちょっと居心地悪いの」「なんで?たまにはこういうのもいいだろ?」テーブルの上は、本当にレストランかと思うくらいにしっかりコーディネートされたものたちが並んでいる。部屋の照明も少し落とされていて、テーブルの上で揺れている蝋燭の明かりが、先生の顔を照らしていて。記念日にはこういったムードたっぷりな演出をそつなくしてくれる先生だけど、今日は記念日でも何でもない。本当に普通の日にこういうことをされてしまうと、何だか気恥ずかしい。先生は、私が戸惑っているのを察知したのか、クスリ、と笑って私を優しい目で見つめた。「日常が急に非日常になって、変な感じ?」「…そんな感じ」そわそわしている私を穏やかな表情で見つめながら、先生はふぅ、と息を吐いて少しだけ真剣な目を私に向ける。「実は今日、非日常なんだぜって言ったら?」先生が背中に手を廻してゆっくりとした動作で立ち上がる。それに合わせて、テーブルの蝋燭がゆらりと揺れた。後ろ手のまま、少しだけ緊張した面持ちで、先生はゆっくりと近付いてきて、私の隣に膝を付く。ごく自然な動作で、私の手をそっと大きな手で掴んで、手のひらに小さな箱を乗せた。軽いのに、存在感のあるその箱は、紫のリボンでふんだんにラッピングされていて。「紫穂の寂しさ、俺じゃ埋められない?」「え?」「…三宮紫穂さん」「…はい」「俺と結婚してくれませんか?」ハッとして顔を上げると、少しだけ頬を赤くした先生と目線がぶつかった。その表情は緊張でどことなく固くて。まっすぐに私を見てくれているけど、先生の目は蝋燭みたいにゆらゆらと揺れている。私は、言われた言葉の意味を理解しているはずなのに、思考回路がストップしてしまって、何も反応できない。私も固まってしまっていることに気付いたのか、先生はふっと笑って伏し目がちに続けた。「何も、今すぐって訳じゃねぇよ?ただ、紫穂には俺の唯一でいてほしい。」「…」「紫穂は、俺のリミッターなんだ」先生はふんわり笑って私を包み込むように見つめている。透視まなくてもわかるくらい、その目は愛情に溢れてて。その視線から逃れるように、俯いて目を反らした。「わ…私の、絶対は、薫ちゃんよ」「知ってる。」「皆本さんだって、大切だわ」「知ってるよ」その二人が欠けたら君じゃないだろ、って笑いながら先生は言う。先生は、小さな箱ごと両手で私の手のひらを包み込んで、真剣で、でも優しい表情で、私を包む。「だから、俺も、その中に入れてほしい」「わ、私は…」息が、詰まる。だって、先生だって、大切。もう、私の中にいる。既に、大きな大きな存在になっていて。でも、でも、だ。「私は、先生を、唯一になんて、できない」息が、苦しい。途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。「薫ちゃんも、皆本さんも、大事なの」そう、私は、皆が大事。「私、先生には、釣り合えない」胸が、いたい。手の中で、かさり、と小さな箱が存在を主張した。先生が、大きく目を見開いて私を見ている。その表情は驚きで埋め尽くされていて。私は、先生の顔を見ていることができなくて、目を伏せた。私たちの間を、沈黙が支配する。先生が、ぎゅっと私の手に力を入れて、口を開く気配がする。「これは、受け取れない?」私の手の中にある、小さな箱を摘まんで、先生は呟いた。それに、私は息をごくりと飲んで、答える。「だって、私…」答えにならない答えが、私の口から溢れていく。ただ、ただ、苦しい。どうしたら、いいの。そんな私を見かねてか、先生はもう一度私の手に箱をおいて、静かな表情で言った。「一応、受け取ってくれないか。返事は後でいいから」「無理よ!そんな無責任なことできない」私は先生に箱を押し付けた。その行動に先生はビックリしたのか、更に目を大きくして、私を見つめ返す。「ダメ、なのか?」「…」「返事は、ノー、なのか」苦しい。苦しい。何も答えることができない。ただただ、胸がイタイ。耳が痛くなるくらいの沈黙が、部屋の中を支配する。「わかった。ゴメン。俺の気持ち押し付けて」私の沈黙に耐えかねたのか、先生はゆっくり立ち上がって私に言った。その手には、大切そうに握られた、小さな箱。私には受け取る資格がないのに、その箱がどうしても気になって仕方がない。先生が、何かを吐き出すように、大きく息を吐く。何と答えればいいのかわからなくて、私は黙っていることしかできなくて。私は、先生の、プロポーズを、断ったんだ。その事実に、胸がとにかく苦しくて、痛くて、涙が溢れてくる。「…泣くなよ。俺が、悪かった」再び私の側に膝を付いた先生が、親指で涙を拭ってくれる。その優しさが、今は痛くて。ポロポロと、次から次へと涙が零れていく。先生の親指じゃ追い付かないくらい、泣いてしまって、先生が、ぎゅっと私を抱き締める。「ゴメン。驚かせた。もう忘れてくれ」忘れられるわけがない。忘れられるはずがない。先生を、傷付けたのも、わかってる。なのに、そんな私に、先生は優しくしてくれる。もう、どうしたらいいのか、わからない。「今日はもう、帰るだろ?送るよ」最後にぎゅっと力を込めてから、先生が離れていく。その顔には笑顔が浮かべられていたけれど、目の奥に暗い光が見えて。止まりかけた涙が、また零れていく。先生が、私の帰る準備をしてくれるのをずっと見ていることしかできなくて。行こっか、と声を掛けてくれる先生に、触れることもできなくて。ただ、涙を溢しながら、頷くことしかできなかった。

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