その日の放課後、今日は待機じゃないけれど、自然と足はバベルへと向かっていた。移動中、プライベート用の携帯を取り出してたぷたぷとメッセージを送信する。『今どこにいるの?』まるで束縛の強い彼女みたいなメッセージになってしまったと思いながら、返事を待つ。すぐに返事が来るときと、返事が遅れて届くときと、確率は6対4くらい。すぐに返事がきて欲しいなと思いながら画面を見つめていると、通知音と共に携帯が震えた。『研究室。学校おつかれ』忙しいだろうに、こまめに返事をくれる先生。本当にマメで女の人にモテたんだろうな、と今だからこそ思う。そして、そのモテ男がなぜ何も仕掛けてこないのかも疑問だ。メッセージアプリを終了して、携帯を鞄に仕舞う。バベルの玄関を潜り抜けて、先生の研究室へと廊下を急いだ。扉の前で深呼吸をする。何でもないように、上がってしまった息を誤魔化して、ロックを解除する。「よぉ、おつかれー」声だけで返事して、こちらに背中を向けたままの先生は、キーボードをカチャカチャ言わせながらパソコンとにらめっこしている。「…今侵入してきたのが不審者なら、一発で殺られてるわね」手をピストルの形にして先生の背中に近付く。ドン、と効果音も付けると、ギッと椅子をならして先生が振り返った。「この部屋のロックを外せる人間は一人しか知らないんでね、そりゃ警備も甘くなるさ」ニッと笑う先生は珍しく眼鏡を掛けている。何しても似合うのが本当にムカツク。ザル警備ね、と一言言い捨ててから、特等席へと向かった。「この部屋、機密ねぇもん。あるのは紫穂との秘密の時間くらいで」「…バカじゃないの?」そんなこと言う暇があれば、キスのひとつぐらいしてみせればいいのよ!バスン、と音を立ててソファに座る。眼鏡の位置を直してまたパソコンに向かい始めた先生の横顔をチラリとみて、やっぱり格好いいなぁ、なんて思ってしまう私は本当に変わったなと思う。「ねぇ、センセ」「なんだ?紫穂」「…忙しい?」折角彼女が来たのだ、ちょっとくらい構ってくれてもいいんじゃないの。ダメだ、今日は本当に思考回路が腐っている。普段なら絶対こんな甘えたことは考えないのに、今日はあんなことがあったせいか思考がおかしくなってしまっている。「んー、ちょっと忙しいな。」ごめんな、とこちらを見て困った顔で笑う先生に、いいのよ、なんて聞き分けのいい子のふりをして私用に置いてある雑誌を手に取る。ぺらぺらと雑誌を捲りながら、滅多に見られない先生の眼鏡姿を目に焼き付ける。「ねぇ、その眼鏡、伊達なの?」「いや?パソコン用。ブルーライト軽減ってやつ」相変わらずカチャカチャとキーボードを叩きながら答える先生に、ふーんとどうでも良さげに返す。「かっこよくて惚れ直すだろ?」「…頭おかしいんじゃないの」「ハハ…まぁ、仕事の時しか掛けてねぇからな。珍しいだろ?」俺の眼鏡、とウィンクする先生にドキッとしてしまって思わず雑誌に目を遣る。本当に、それぐらいタラシなことができるのなら、さらっとキスくらいしてくれればいいのに。それとも、私って魅力ない?本当は子どもだと思ってる?浮かんでは消えていく疑問を首を振って思考の外に追いやる。仕事の邪魔をしていては、本当に子どもと変わらない。せめて、大人しくして、一緒の時間を過ごしていたい。先生が、ふぅっと息を吐いて、デスクの横の鞄をガサガサと漁っている。何してるんだろう、と観察していると鞄の中から何か袋を取り出して口の中に黒い塊を放り込んだ。「今の何?何食べたの?」「ああ、これ?黒砂糖だよ」紫穂も食べる?と先生が袋を差し出す。一粒受け取って、ころころと手のひらに転がした。「今日さ、午前中だけで緊急オペが二つも入っちまって、飯食えてねぇのに、書類もガッツリ溜まっちまっててさ…脳の栄養補給に食おうと思って」いつもブドウ糖の代わりに持ち歩いてんだ、と先生は再びパソコンの作業に戻っていく。その横顔は本当に腹が立つくらい顔立ちが整っていて。最近は何だか色気?フェロモン?みたいなものまで見えてしまって、本当に思春期の男子高校生かって自分につっこみたくなる。松風くんじゃあるまいし。口をもごもごと動かしている先生を、ぼーっとした頭で見つめる。あれ、じゃあ、今キスしたら、黒砂糖の味がするのかしら?そこまで考えて、ハッとする。ダメダメ!最近、本当にこんなことばかり考えてる。これじゃただのいやらしい子だわ。思考を振り払うように先生に貰った黒砂糖を口の中に放り込む。舌の上でほろりと溶けていくそれに、ほっこりとした気分になった。甘くて、まろやかで、ほんの少し苦味もあるような、ただ、甘いだけじゃない、不思議な味。先生も今、同じものを食べてるってことは、この味を共有してるってことで。今、限定の話をすれば、私の口の中は先生の味が拡がってるってこと?そこまで考えて、顔が真っ赤になるのを自覚して雑誌にばさりと顔を臥せる。「どした?」「…なにが」「今日は珍しく百面相してる」可愛い、と先生が呟いたのを耳が拾ってしまって、更に顔が熱くなっていく。「こっち見てないのに何でわかるの」雑誌から目だけを出して先生を覗き見ると、やっぱりパソコンに向かったままで。私の方なんてチラリとも見ていない。先生はクスリと笑って、やっとこちらを見た。「愛の力?」「…ふざけないで」「半分はホントだぜ?まぁ、今日部屋に入ってきた時から何か様子おかしかったからさ」学校でなんかあった?と先生がデスクに肘をついてこちらを見ている。サイコメトラーは聡い、というか、勘がいい。人の思考を透視み取ったりするからだとは思うけど、こんなときにその勘の良さを働かせないでほしい。だって、自分でもどう説明すればいいのかわからない。学校で、女子のマウンティングに遭いました、なんて。「…大丈夫」「そうか?ま、言いたくなったら言えよ」そう言って先生はまた仕事に戻っていく。その姿に少しだけ寂しいなと思いながらも、何でもない風を装って雑誌に目線を移す。特に興味のない特集のページをぺらぺらと捲っていく。いくらなんでも、クラスの女子にいろいろ言われたからって、落ち込みすぎじゃないかしら。はぁ、とひとつ溜め息を吐きながら、もう一度先生の横顔を見る。ただ、キスがしたいだけなのだ。この願望だけ取り出してみると本当に厭らしい子みたいだけれど、デートもする、スキンシップも普通にする、なのに、キスはしてくれない。キスできそうな至近距離になったことだって、一度や二度じゃない。慣れてきたとは言え、こちらはいつもドキドキしっぱなしなのだ。いい雰囲気に持っていったりする余裕も経験値も無くて、先生からのアクションを待つことしかできない。精々自分からできることなんて、手を繋ぐくらいが精一杯だ。それでも、先生の嬉しそうな顔にどぎまぎしてしまって、いつも冷たい態度しか取れなくて。透視まなくてもわかってくれているとは思うけど、先生相手に可愛い自分なんてどうやって演出すればいいのかわからない自分が、時々嫌になる。きっと先生が今までお付き合いしていた女性はみんな大人で、そんな私はすごく子どもっぽく見えているかもしれない。だからだろうか、私たちの間に、何も起こらないのは。もう一度、はぁ、と思わず溜め息を吐いてしまって、慌てて口を押さえる。こんなの、悩みがありますと言っているようなもんじゃないか。大丈夫、と言ったのに、こんな風に思わせ振りなことをしていては、悩みを聞いて欲しいと言っているような、まるで、面倒臭い女じゃないの!「…言いづらい悩みでもあるのか?」やっぱり!この男が反応しないわけがない。カチャカチャと相変わらずキーボードを打つ手は止まらない。でも、意識は明らかにこちらに向いていて。仕事の邪魔だけはしたくなかったのに、結果的に邪魔になってしまっている気がする。私、今日はもう帰った方がいいのかしら。「言いづらいっていうか…ちょっと悩んでるだけ」何でもないの、と言いながら、何でもなくはないのは自分が一番知っている。先生にバレなきゃいいけれど、私の体調から精神面まで気持ち悪いほどに鋭いこの男にバレない自信が全くと言っていいほどにない。透視は反則、と二人の間で決めているのに、透視んだんじゃないかと思うくらいに私の不調を言い当てるのだ。タイピングの音がピタリと止んで、ギッと椅子を鳴らして立ち上がる。すたすたと先生がこちらに近付いてきて、私の顔を覗きこむ。「あんまり溜め込むなよ。何でも聞いてやるから」するり、と大きな手で頭を撫でられて、胸が高鳴る。その悩みの原因は貴方にあるのよ、と言えたらどんなに楽だろう?ん?と聞きの態勢に入っている先生の優しい顔にきゅんきゅんと音がする。落ち着きたいのに、相手が百戦錬磨の男のせいで、経験値ゼロの私は本当に気分が上がったり下がったり。どうすればいいの?どうすれば先生ともっと恋人らしいことができるの?高鳴る胸を抑えるように、胸元をそっと押さえる。「…俺じゃ、話しづらい?」心配そうな顔をする先生に、ふるふると首を横に振る。他の誰かに相談する方が、もっと無理だ。恥ずかしくて死んでしまう。素直に、先生に聞いてしまえば楽になれるのに、どうしても聞けない。こんなことで悩んでる自分を知られて、嫌われるのがこわい。っていうか、こういうところでいつもの勘を働かせて悩みを当ててくれればいいのに!なんで、こんな時だけ鈍いのよ!と八つ当たりぎみな感情を心の中で燻らせる。「俺、なんかした?」なにもしてこないから悩んでるのよ!と心の中で大声で叫ぶ。バカみたいに一人で空回りしている自分が何だか情けなくなってきて、はぁ、と目を閉じる。何だか溜め息ばかり吐いている気がするけれど、吐き出さないともういい加減爆発してしまいそうだ。「先生は何もしてないわ、何もね」「?じゃあ学校で何かあったんだろ?言ってみ?」「…学校で女の子たちに、ちょっとね」「まさか、超能力のことなんか言われたのか?」「…ちがうわよ。そんなこと言われたら私が黙ってないのは先生が一番知ってるでしょう?」私の言葉に、先生は、それもそうだな、と頷く。それはそれで何だかいい気分はしないんだけど、この展開は、この男は何がなんでも私の悩みを聞き出す気でいるらしい。こうなったら、腹を括って話すしか、道は残されていない。深呼吸をして、真っ直ぐに先生を見つめる。「…どうして」「ん?」「どうして、キス、してくれないの?」空気が、シン、と固まる。先生も目の前で固まっている、優しい表情を引きつらせて。ああ、死んだわ、コレ。はしたないって思われても仕方ない。そう思ってはいたけれど、現実にそうなるとやっぱりダメージがキツい。正直、告白の時より、ずっと、勇気を振り絞った。なんかもう、お付き合いを始めてから、私ばかり空回りしてる気がする。先生は大人で、経験もあって、私じゃ追い付けない。この恋は、きっとここで終わるんだ。その事実に気付いた途端、じわっと涙が浮かんでくる。「っアー!ちょっと待てちょっと待て!」泣く展開じゃねぇからコレ!と先生が慌てて私の目許を親指で拭う。「ていうか、何?学校で女子に何言われたの…」紫穂が泣くとか相当だろ、と言いながら、先生はギシッとソファのスプリングを鳴らしながら私の隣に座る。ぽて、と先生の肩に頭を預けて、今日の出来事を話した。「女子、コッワ!」やべーな、女子、と先生は顔を引きつらせて叫んでいる。そんな先生に、ぽつり、ぽつり、と学校でクラスメイトに先生とのことを聞かれる度に嫌な思いをしていたことや、それがきっかけで何故キスしてくれないのか凄く悩んでしまったことなんかを話した。先生は、私の話をじっと黙って聞いてくれて、少し考え込んでから頭をバリバリ掻いて、顔を少し斜めに向けて呟いた。「…単純に、タイミングを計りすぎていつも逃してるってだけだ。したくないわけじゃない。むしろ、したい。」頬をポリポリと掻きながら、所在なさげに先生は言う。「…何それ?ヘタレすぎるにも程があるんじゃないの」「…………………そう言ってくれるな」自覚はあるんだからよ、と先生は口を尖らせている。そんな先生を可愛いと思ってしまう自分も、相当なものだと思う。「私、子どもだからしてくれないんだと思ってた」「そんなわけねぇだろ。好きな子には何だってしたいさ」ソファのスプリングがギシリとまた音を立てる。先生の顔が目の前に近付いて、私の肩を抱いた。「いいのか?」「な、にが?」「この状況でそれ聞く?」クスッと先生がものすごく間近な距離で笑う。鼻と鼻が今にもくっついてしまいそうだ。「理想のシチュエーションじゃねぇかもしれねぇけど、ごめんな」少しだけ、申し訳なさそうな顔をして、先生は私の頬を撫でる。その手のひらが気持ちよくて、すりりと私も頬を寄せる。先生の白衣をきゅっと掴んで首を降った。「先生となら…何だって嬉しい」頬を撫でる先生の手がぴくりと震える。「そっか…」すごく嬉しそうな顔で先生が微笑む。この顔がすごく好き。いつも以上にドキドキしてる。ほぅ、と息を吐いて先生を見つめた。「目、閉じて」先生の一言に、緊張でひゅっと喉がなった気がする。先生は片手でサッと眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。そんな仕草もイチイチ色っぽくて、ドキドキしてしまう。先生がフッと笑って近付いてきて、思わずぎゅっと目を瞑った。こういうときってどうすればいいの。息は止めてればいいの?じっとしてればいいの?透視で何でもわかるなんて思い過ごしだったわ!だってこんな時どうすればいいのかなんて誰も教えてくれないじゃない!内心あわあわと惑っていると、柔らかいものが口に当たった。そして、ちゅっ、と湿っぽい音と共にゆっくりと離れていく。至近距離で先生の吐息を感じて、身体がふるりと震えるのがわかった。「すっげぇ緊張してるな」フッと先生が笑った気配がする。私はまだ緊張で目を開けることができなくて。「あ、当たり前じゃない!初めてなんだから!」ぎゅっと身体中に力を入れたまま叫ぶと、先生がアハハと笑った。「初めてじゃなかったら俺多分使える力全部使ってそいつのこと絶望の淵に立たせてから抹殺してた」冗談ではない響きにぎょっとして目を開けると、いつもと変わらない笑顔の先生がそこにいて。「そんな恐ろしいこと言ってる顔じゃないわよ、ソレ」「サイコメトラーが腹黒なのはお前も知ってるだろ?」先生がおでこ同士を合わせてすりすりと甘えてくる。何度かされたことがあるのに、キスをした後だからか、いつも以上にドキドキして、これ以上ないくらいに頬が熱くなる。「顔、真っ赤だぜ?」かわい、と先生が呟きながら、私の顔を包む。するすると私の肌を味わうように、先生が親指を滑らせていく。今までに経験したことのない濃密な接触に、ドキドキを通り越してフワフワした感覚に支配されてしまう。「センセ…」先生の優しい手付きに、どんどん身体の力が抜けてしまって。クラクラする頭を何とか支えようと、先生に体重を預ける。「紫穂」甘い声で先生が私を呼ぶ。トロトロに融かされた顔で私は先生を見ているのだろう。恥ずかしさも照れも全部何もかも飛び越えて、先生に触れていたい、もっと触れたいという気持ちがどんどん膨れ上がってしまって。「センセ…」自分でも驚くくらいの甘くて切ない、掠れた声で先生を呼ぶ。もう一回、とねだる前に先生がキスの雨を降らせてくる。さっきよりも柔らかく感じるソレに、自分の力が抜けたからと気付いて先生を掴む手の力を強める。少し食むようなキスを繰り返す先生に答えるように、私も先生の熱い唇をかぷりと食んだ。そんな私の様子に気を良くしたのか、先生は口角を弛く上げてぎゅっと私を抱き締める。ふっと息を吐いて唇が緩く開いたところに先生がおそるおそる舌を這わせてきて。この先、なんて、知らない。ふぁ、と口が緩んでしまって、先生の舌の侵入を許してしまう。こちらの様子を伺うように、でもゆっくりと丁寧に歯列を舐めていく先生の動きに背筋がゾクゾクした。「…んっ」自分でも聞いたことのないような甘い声が鼻を抜けていく。耐えきれなくなってうっすらと目を開けると、バッチリと先生と視線が重なって。恥ずかしさが急に込み上げてきて再びぎゅっと目を瞑る。先生は私を支えるように腰に手を回してキスを続けた。時々呼吸を確保するように離れてはくれるけど、それも一瞬で、すぐにキスが再開される。いい加減苦しくなってきて眉根を寄せると、先生は最後に深く吸い付いてから、やっと離れていって。はぁはぁと肩で息をしながら、ゆっくりと目を開けて先生を見ると、見たことのない切ない表情で私を見ていた。「…ゴメン、夢中になりすぎた」はぁ、と先生が私の肩に頭を乗せる。そのまますりすりと頭を擦り付けて甘えてくる先生の背中に手を這わす。先生の広い背中を包む白衣をきゅっと掴んだ。「…ん、平気」先生が、はぁ、と深く息を吐いて、顔を上げる。表情はもう、いつもの先生に戻っていて。なんだか、私だけが、取り残された気分。「しちゃったな、キス。」嬉しそうに先生は笑って、またおでこをコツリと合わせてくる。少しむず痒く感じてしまって、私は目を細めて照れた表情を隠すように俯いた。「ご感想は?紫穂サン」先生が私の顔を覗きこむように上目遣いで見つめてくる。すごく嬉しそうな顔をしている先生に、普段なら絶対に照れて言えないだろう内容が、素直に口から滑り出そうとする。「…く、」「く?」どぎまぎしながらも、何とか口を動かす。「く、黒砂糖、の味、だっ、た。」カァ、と更に頬が熱くなるのがわかる。自分勝手に身悶えていたことが、実際経験してみたら、本当に黒砂糖の味がしたなんて、恥ずかしすぎて死んでしまいそうだ。「他には?」ちゅ、ちゅ、と顔中に先生がキスをしていく。恥ずかしさと心地よさがない交ぜになって、頭の芯を融かしていく。「…先生が、」「俺が?」「すごく、近い」ぎゅっ、と白衣を掴む手に力を込める。先生の肩口に顔を埋めて、すぅっと息を吸う。胸が、先生の匂いで、いっぱいになる。甘えるように、先生の肩に頬を寄せて、うりうりと擦り付ける。「まぁ、ゼロ距離だからな」ぴったりと身体を合わせるように抱き締め直されて、心臓が再び跳ね上がった。今まで、こんなに密着して、長い時間を過ごしたことがない。本当に、ドキドキでおかしくなりそうだ。でも、もっとくっついていたい。先生に触れていたい。「もう一回、しよ?」普段なら、絶対に、言えない。今は頭がおかしくなってるから、言えるんだわ。そんな言い訳をしながら、先生に顔を向けると、顎を指でそっと持ち上げられて、触れるだけのキスをした。「…ゴメン、これ以上は、俺の我慢が限界」あー、くそっ、と呟きながら、先生はぎゅうぎゅうと私を抱き締める。「センセ、くるし…」「あ、ゴメン!」パッと先生が手を離して離れていく。身体中に残った余韻をかき集めるように、自分を抱き寄せた。「…我慢が限界って?」「俺も、男だから。」察してくれ、と呟きながら、先生はデスクへ戻っていく。やっぱり取り残された気分だけれど、これ以上の先がある、なんて、今の私にはとても耐えられそうにない。それでも。「…ヘタレ」「今はヘタレでもいーの!」何ともいえない表情で私に振り向いた先生は、その時が来たら覚悟しておけよ、と私を指差して言い放つ。「そんなの、ヘタレの捨て台詞じゃない」「へぇ?ファーストキスで顔真っ赤にしてた紫穂チャンがそんなこと言っちゃうんだ?」ゆらり、と先生がこちらへ方向転換して戻ってくる。しまった、と思ったときにはもう遅かった。顔を先生の大きな手でロックされて、先程までとは違う容赦ないキスをされる。いきなり噛み付くように口付けられて、舌が割って入ってくる。逃げようと舌を引っ込めても、抵抗は許さないとでもいうように執拗に追いかけ回されて舌を絡めとられる。キスは唾液の交換なのだとどこかの知識でかじったことがあったけれど、文字通り、先生の唾液がこちらへと移されて、溢れた唾液が口の端から伝っていく。何これ、知らない。キスって甘いだけじゃないの。ついさっきまでのキスが、いろんな意味でまだまだだったと思い知らされて。心と身体が蕩けてバラバラになってしまうような感覚に、思わず先生の服をぎゅっと掴んだ。先生はそれを何かの合図だと思ったのか、最後にちゅっと私の唇を吸ってゆっくりと離れていく。「…改めて、ご感想は?」先生が親指で自分の唇に残る唾液を拭いながら聞いてくる。その仕草が余りにも色っぽくて、余計にクラクラしてしまって。「…こんなの、知らない」私の唇から溢れた唾液も拭って、ちゅっと吸い付くキスをひとつ。「知ってたら、嫉妬で狂っちまうよ」ニヤリと笑う先生で目の前がいっぱいになる。そんな先生にも胸がきゅうんと高鳴って、痛くて、切ない。でも、毒みたいに、甘い。この先は、これに耐えられるようになってからな、と耳許で囁かれて、甘い痺れが全身を駆け抜けた。
黒砂糖にキスをして。



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