紫穂ちゃんの初めて記念日

先生がお会計を済ませて店員さんにご馳走さまと挨拶したタイミングで、私も頭を下げてご馳走さまと挨拶して店を出る。これもいつも通りで何も変わらない。先生の隣に並んでコインパーキングまでの道を歩くのも、今までに何度も経験している。ひょっとしたら、さっきのは夢か何かで、現実ではないのかもしれない。気付かないうちに催眠でも掛けられたんだろうか。ぱちぱちと瞬きを繰り返して意識をはっきりさせてみても、見えている景色は何も変わらなかった。もしかして、今日のお出掛け自体が夢なんだろうか。もしそうだとしたら、とんでもなく一人芝居だ。夢ならこんな幻、はやく醒めてほしい。幻覚を振り払うようにきゅっと目を瞑ると、そろりと指先を絡め取られて。びっくりして思わず手を引っ込めてそちらを見ると、私の手を取ろうと身体を屈めた状態で目を見開いている先生と目が合った。私と同じように驚いた表情で目をぱちぱちとさせている先生にいたたまれなくなって、顔を少しだけ俯ける。今まで、成り行きで手を繋いだことは何度かあった。混雑している花火大会で迷子になるといけないから、とか、冬の夜に一緒にイルミネーションを見ていて指先が冷たくなってるから、とか。手を繋いだことはあったけれど、いつも必ず理由があって、突然何も無しに手を繋ぐことなんてなかったし、ましてやこんな風に指先を絡めて手を繋ぐことなんて今までなかった。驚きで心臓がドキドキと煩い。顔だってきっと真っ赤だ。「……ゴメン……イヤだったか?」少し落ち込んだトーンで呟いた先生に、バッと顔を上げて首を振る。「ちっ、ちがうの! えっと……その、驚いた、だけ」これは結局夢なんだろうか。それとも現実なんだろうか。触れた指先の体温はあたたかかった。でも催眠だったら、体温なんてどうとでもなる。どっちなんだろう、と目を閉じて深く息を吐いた。それからゆっくりと目を開けると、やっぱり先生はじっとこちらを見ていて。「……ちゃんと、正式に君の彼氏になれたから。できれば、その……手を、繋ぎたいんだけど……ダメか?」眉を下げて、お伺いを立てるように私に問いかけた先生に、ひゅっと息を呑んだ。やっぱり現実だ。本当に私と先生はいわゆる男女交際をしている仲になったんだ。どきどきと煩かった心臓が急にきゅんと音を立てて飛び出してしまうかと思った。「……だ、ダメなわけ、ないデショ……手くらい、いくらでも繋いであげるわよ」ぎゅっと眉間に皺を寄せて、プイとそっぽを向きながら手を差し出す。ふっと笑って眉を下げた先生は、屈めていた身体を元に戻して私の手に指を絡めた。「じゃあ遠慮無く……ハハ、やっぱり小さいな! 君の手!」しっかりと手を繋ぎ直してまた歩き始めた先生の隣に並びながら、きゅっと絡めた指に力を込める。そんな嬉しそうに言われたらこっちが恥ずかしくなってくる。何も返すことができなくて黙々と車までの道程を歩いていると、あっという間にコインパーキングまで着いてしまった。車のロックを外した先生は後部座席に荷物を置いてから助手席のドアを開けて、ニコニコと浮かれた顔で私が車に乗り込むのを待っている。どんな表情を浮かべていればいいのかわからなくて、ぎゅっと眉を寄せたまま車に乗り込むと、私がちゃんと座ったことを確認してから先生が助手席のドアを閉めた。そのまま精算機へと向かってしまった先生の背中を見つめながら、ホッと息を吐いて肩の力を抜く。その背中からもわかるウキウキとした様子に、何だかむず痒さを覚えてしまう。精算を終えた先生がくるりと振り返ってこちらを向いた瞬間、ばちりと目が合ってしまって、ふわりと綻ぶように微笑まれてしまった。その笑顔にどきりと心臓が音を立てて跳ねる。今までこんなにドキドキなんてしなかったのに。昨日までの自分たちと変わったことと言えば、肩書きが変わったことと、恋人らしい手の繋ぎ方をしただけで。それ以上のことなんて何もないのに、どうしてそこまで浮かれられるんだろう。そもそも自分たちが、恋人同士、だなんて。「おまたせ」運転席に乗り込んだ先生が嬉しそうに笑ってシートベルトを締めている。何がそんなに嬉しいって言うんだ。女性と付き合うことなんてそれこそ両手の指じゃ足りないくらいに経験しているクセに。気紛れに私と付き合ってみるだけで、どうせ、数ある女性経験のひとつに紛れて、私なんてすぐに埋もれてしまうんでしょ。この男が、私だけ、なんて満足できるはずがない。実際付き合おうと言われただけで、何かあったわけじゃないんだし。明日にはもう、手のひらを返したように他の誰かを口説いているかもしれない。「……着いたよ」ぼんやりと考え事をしていたら、あっという間に私のマンションの前まで来ていて、先生はエントランスではなくて来客用の駐車スペースに車を停めた。バックミラーを確認しつつ、助手席に腕を回して後ろを見ながら車を動かした先生の顔が、思ったよりも近い位置にあってどぎまぎしてしまう。車を停車させてから、ちらちらと先生を盗み見ている私の視線に気付いた先生は、フッと口元に笑みを浮かべて更に顔を近付けてきた。思わずきゅっと目を瞑って身構えると、クスクス笑う声が聞こえて。恐る恐る目を開けると、おかしそうに笑う先生と目が合った。カッと頭が沸騰するような感覚に襲われながら、ぷぅと頬を膨らませて先生から視線を逸らす。未だクスクスと笑っている先生を横目で睨みつけて、フンと鼻を鳴らした。「……キス、されるのかと思った!」精一杯強がって文句を言うと、先生はカフェで見せた熱っぽい視線を浮かべてじっと私を見つめてくる。「していいの?」更にぐっと距離を詰めた先生の顔はもう間近にあって、咄嗟に先生の肩を押して距離を保った。「……だ、だめ。そんなの、まだ、ダメよ」私はそんなに軽い女じゃないし、軽い女だと思われたくもない。おもしろくない、つまらない、と思われても仕方がない。それでも簡単に許す気にはどうしてもなれなかった。残念、と眉を下げた先生はしつこく強請ることもなく、そのまま車を降りて後部座席の荷物を肩に担いでしまう。慌てて助手席から降りると、先生は笑って手を差し出した。「今日荷物多いから。部屋まで送ってくよ」「え……そんな、大丈夫よ?」「少しでも一緒にいたいんだよ」そう言って、先生はまた私の手に指を絡めて歩き出した。私を引っ張っているようで、実はちゃんと私の歩幅に合わせて歩いてくれているのが切なくて苦しい。絡んだ指先も何だかあついような気がしてもどかしかった。私にとっては先生だけでも、きっと先生はそうじゃない。もやもやと渦巻く違和感を心の中に留めながら、黙々とエレベーターホールへの道を歩いていく。心に燻る不安を取り除くようにきゅっと指に力を込めた。「なぁ」エレベーターを待ちながら、先生が静かに声を上げる。「……君の部屋と俺の部屋、それとも何処かいいホテル。どこがいい?」私たちだけしかいないエレベーターホールの空間に、先生の落ち着いた低い声が響く。え、と先生を見上げると、先生はまっすぐ前を見ていた視線をこちらに向けた。じっと私の返事を待っている先生に、眉を寄せながら首を傾げる。「……なんの、コト?」先生の部屋だとかホテルだとか、一体何の話をしているんだろう。どこがいいと言われても、何を選べばいい話なのかわからない。じっと変わらずこちらを見つめている先生を睨み返すと、先生は驚いたように目を見開いた。「え……君の誕生日に……君が、欲しいって……俺……」言ったよね? と先生は焦ったように私の顔を覗き込んでくる。そこまで言われて、やっと先生の言葉の意味を全部理解して、こちらも目を見開いた。「え? ちょっと待って!? あれってそういう意味だったの?! 私と付き合うって意味だったんじゃ……」おろおろする私に先生は溜め息を吐いて、違うよ、と小さく呟いた。「……交際は、ちゃんと別で、申し込んだろ?」不貞腐れたように眉を寄せながら、先生はチラリと私を見つめてくる。それから、急に真面目そうな顔をして、先生はしっかりと私に向き直った。「俺は……君が二十歳になったら、君を抱きたいと思ってる」丁寧に告げられた言葉にハッとして、でもやっぱりどこか不安定で受け止めきれないその言葉を、ゆっくりと自分の中で咀嚼した。どうやら本当に、先生は私のことを女として意識してくれているらしい。それが嬉しいはずなのに、どうしてなのか、飛び込むことは躊躇われる。私も、とその胸に飛び込んで抱き締めてほしいのに、私が捕まえた瞬間、するりと消えていなくなってしまうような、そんな気がして仕方がない。もっとはっきり、私だけだと教えてほしい。「まだ……」「え?」「……まだ……好きって、聞いてないわ」付き合おうと言われただけで、明確な何かを聞いてはいない。私がほしいと言われたけれど、私だからほしいと言われたわけでもない。「本当に……私のこと、好き?」違和感がはっきり不安という形になって私の中に姿を現す。面倒くさい女だって思われてしまうかもしれない。でも、私だけのものにならない先生なんて要らない。それなら今まで通り、付かず離れずの、熱いのか冷たいのかわからない、ぬるま湯みたいな関係のままでいたかった。「嘘を吐かずに、私だけだって、言える?」そっと先生の胸に手のひらを当てながら、先生を見つめる。自分たちの超度同士じゃ、本気を出さないと真意なんて透視(よ)み取れない。でも、お互いに打ち明ける気持ちがあるのなら。表層を透視(よ)み合うことなんて容易いはずだった。「いいよ。透視(み)てくれ」先生はくしゃりと顔を綻ばせて私を見つめている。それから胸に当てた私の手に大きな手のひらを重ねて、そっと口を開いた。「君が好きだ。もうずっと君だけの虜だよ。他なんて要らない。君だけがほしいんだ」じっと私を見つめるその視線と同じ想いが、手のひらを通して伝わってくる。じわりと広がる先生の想いが自分のものと重なって、自分を押し止めようとしていたブレーキが外れた。「……私もね……ずっと……ずっと、好きだったよ」ずっと先生だけだったの、と呟けば、ハッと目を見開いた先生が、紫穂、と小さく私の名前を呼んだ。「キスしたい。君だけだって、もっと伝えさせてくれないか」紫穂、ともう一度名前を呼ばれて、ふわりと顔を綻ばせる。「……いいよ。先生になら……私の初めて、全部あげる」もう大丈夫、とおずおずと先生の胸に飛び込めば、力強く抱き締められてそっと顎を持ち上げられる。背伸びして先生の首にそろりと腕を絡めた。身体を屈めた先生の顔がゆっくりと近付いて、至近距離で見つめ合う。紫穂、と呟いた先生に応えるように目を瞑る。触れ合ったところから伝わってくる、お互いだけだという想いを感じながら、ずっと触れたくて待ち焦がれていた、お互いの唇が重なった。

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