星屑キラリ

普段よりイライラして集中できていない自覚はあった。それでも今は集中して自分の任を果たさなければならない。「その情報もう古いです。今透視したらこちらのルートで突入するのが現状の最適解だと思われます」マップに示されたルートを指差しながら、突入班の部隊長に指示する。部隊長はそれに深く頷いて、現場に無線で追加の指示を出している。その内容を耳で確認しながら、ふぅ、と溜め息を吐いた。自分の仕事が精彩を欠いている理由はわかっている。全てここ数日に起きたプライベートのゴタゴタのせい。私はそれに心乱されて仕事に集中できないでいる。でも、それを表に出すわけにはいかない。他人にそれを悟られて自分の力を馬鹿にされるのも嫌だったし、やっと纏まり始めていた自分のチームが乱されるのも嫌だった。だから意地でも私はいつも通りの仕事をこなさなきゃいけなかったし、なんてことない顔をして皆に接しなければならなかった。「中佐、次はどうしますか?」皆の視線が私に集まる。それに重圧を感じたことがないわけじゃない。期待されればされる分、判断の重さは増していくばかりだった。「……Aチームを陽動に使って犯人たちを撹乱しましょう。その間にBチームが現場制圧、Cチームは人質の保護。規模は大きくなりますがその方が確実に犯人も押さえられるし人質も救えるはずです」現段階で安全確実を取るならこの方法が恐らく一番堅い。人員を割くことにはなるけれど人の命が掛かっている。自分の心の乱れの所為で作戦成功率を下げるのは絶対に避けなければならない。「よし! では一二三○突入用意!」部隊長の掛け声が部屋に響き渡る。時計を確認して約五分後の作戦開始にホッと息を吐いた。あとは作戦中に想定外のことが起きないことを祈るのみ。五分の長いようで短い時間をぎゅっと手を握り締めて過ごす。カチカチと秒針の音が耳許で鳴っているようだ。ごくりと息を呑むと部隊長のテンカウントが始まった。十、九、とカウントが減る度に緊張感が走る。「突入ッ!!!」部隊長のつんざくような掛け声が無線を通して現場と部屋中に響いた。現場からテレパシーで送られてくる映像を透視しながら様子を見守る。「Bチーム、犯人グループ、情報通りエスパーを含む五名、全員確保しましたッ!」「Cチーム、人質になっていた職員全員の保護も終了しましたッ!」「部隊長! 現場制圧完了しました!」「よしッ! これにて作戦終了ッ! 犯人の収容と人質の救急輸送を急げ! 後方支援部隊との連携を取りながら、各自事態の収拾に当たれ!」了解、と無線を通して現場部隊からの返事が次々に送られてくる。予知対策課からも予知が消失したとインカムを通して連絡が入った。念のため現場と繋がっているテレパスを通して現場の様子を透視して、最悪の事態は回避できたことを確認する。そこまでやってやっと肩に入った力を抜いてホッと息を吐いた。インカムを外しながら緊張を解すように首の後ろを撫でる。「お疲れさまでした」「……作戦は終了したけれど、無事に撤収が完了するまでまだ気を抜けないわ」かちゃりとインカムをデスクに置いて笑いながら眉を下げて部下に顔を向ける。「ですが……今回もお見事でした」「……私は自分の仕事を全うしただけですよ」ほんの少し、自分に向けられるキラキラとした羨望が堅苦しいと感じる時がないわけではない。それでもその期待に応えてきたからこそ、今のチームを保てていると言っていい。肩肘を張って自分を大きく見せなければならないことも多いけれど、そんな部下たちの気持ちを利用しているのだから文句は言えなかった。頬を赤らめながらインカムを回収していった部下の背中を見遣りながら、うん、と背伸びして気を抜いた時だった。ざわりと部屋の中が騒々しくなって、何かあったのかと気を引き締めなおして周囲に目を遣ると、入り口のところに局長の姿が確認できて。その陰に隠れるように何故かあの男もそこに立っていた。「……なん、っで! あの男がいるのよ!」誰にも聞かれないように小さく呟きながら、パッと隠れるように顔を伏せる。チラリと視界を掠めただけでその存在を認識してしまえる自分の目を呪いたい。どうしてここにいるの。まだ完全に仕事を終わらせたわけじゃないのにそれだけが思考を占めて頭が真っ白になっていく。逃げ出したくてもまだこの場から離れるわけにはいかなくて、とにかく見つからないようにと身体を縮こまらせた。後ろに誰かが近付いてくる気配を感じてヒヤリとしていると、トン、と肩を叩かれた。びくり、と身体を震わせて触れられたところから透視を試みる。後ろに立っているのが誰かわかって、ほっと胸を撫で下ろした。「……やぁ、紫穂。今日の対応も見事だったね。お疲れ様」「皆本さん」ゆっくり顔を上げると、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべた皆本さんが立っていた。先生に気を取られて皆本さんも一緒に部屋に入ってきたのに気付かなかった。立ち上がろうとすると手のひらで皆本さんに制止される。「段々精度が上がってくるね。ただ……今日は少し、他に気を取られていたかな? 無理は禁物だ、すぐに検査を受けて休むように」「……わかってるわ。全部終わったら検査を受けて今日はもう通常業務に戻ります」皆本さんの指摘にぐっと唇を噛み締めながら、それ以上の詮索を受けないように大人しく指示に従う体を装う。部下たちは私の異変に気付いていないのに、経過報告しか聞いていないであろう皆本さんが私の不調を指摘するのだ。きっと何に気を取られているのかなんてバレているだろうし、あの男から散々話は聞かされているだろう。ここは早期撤退一択に限る。「通常業務にも入らない方がいいんじゃないか? 今日はそのまま上がってもいいと思うよ」「いえ、流石にそういう訳には……」穏やかに笑っている皆本さん相手に苦笑いを浮かべると、皆本さんは首を傾げて困ったように笑ってみせた。「……あそこに君に用があってここまで駆けつけた奴がいるみたいだけど?」自分の後ろへちらりと目配せして、皆本さんは局長の隣に突っ立っているあの男のことを的確に指で指し示す。それに思わずぴくりと眉が反応してしまって、くっと表情を歪める。「……逃げてるのか? 賢木から」淡々とした様子で皆本さんは私に問いかけてくる。逃げる?私が?冗談でしょ。そう言いたくても乱れる心が上手く言葉を紡ぎ出してくれない。とてもじゃないけれどまだ冷静にこの話をできるほど、私は大人になりきれていなかった。「……逃げる? 違うわ、皆本さん。私はもう初恋を清算するって決めただけ」そう。もうこの恋は終わった。あの夜、無惨に壊れてしまった。だから私は新しい恋を探す。昨日の今日で上手くいくわけないけれど、いずれきっといい人が見つかるはず。昨日のデートは、夕方、あの男と会ったせいで散々だった。心を乱された状態で会って、デートに集中できるわけなんてなくて。楽しいとすら思えなかった。あの男があんなことを言うから、揺れた感情のまま次に繋げる気も起きなくて、最中に何を話していたかも覚えていない。「私、やっと決意したのよ?! もうやめようって。なのにどうして邪魔するのあの男!!!」ついカッとなって叫んでしまって口許を押さえる。今だってこうして簡単に感情を乱されて、情けないことこの上ない。「……中佐。大丈夫ですか?」私の様子に異変を感じ取った部下がそっと駆け寄ってくる。それににこりと微笑んでぱっと感情を取り繕った。「大丈夫。なんでもないわ」気にしないで、と続けようとして、部下がちらりと視線を動かしてあの男を睨み付けた。「……排除しますか?」低い声で告げた部下の声に、く、と眉を寄せて向き合う。「……それはあなたが決められることではないでしょう? そして私に決められることでもないわ。この場に誰がいようと我々は自分の仕事を全うするだけです」ぴしゃり、と部下に言い切ると、さっと青ざめた表情で部下はすみませんと頭を下げた。そのまま離れていった部下を目で追って、つい視界に入り込んできたあの男の姿からまたパッと顔を逸らした。何となく目が合ったような気がするけれど、そんなのは全部気のせいだ。「大分、上官らしさがでてきたね。やっぱり紫穂をここに配属したのは正解だった」「……毎日毎日とっても大変だけど。薫ちゃんと葵ちゃんと、三人一緒に現場に出てる方が気楽だったわ」「だからだよ。君には指揮官としての才があったから、組織のためにも成長してもらわなくちゃね」年嵩を経て、ほんの少し不敵な笑みを浮かべるようになった皆本さんには、とてもじゃないけど勝てる気がしない。子どものように我が儘を言って皆本さんを困らせていたあの頃とはもう違う。今の皆本さん相手にマトモにやり合うのは得策じゃない。早く皆本さんの追及から逃れてとっととあの男から離れなくては。どうせ視察だとか何だかんだ理由を付けて局長と皆本さんを巻き込んでここに来たのだろう。でもここに来たからといって何かが変わるわけではない。ここは私の仕事場だ。あの男に口出しなんてさせない。「とにかく、無事撤収と後始末が終わったら検査を済ませて通常業務に戻ります。それで問題ないでしょ?」こちらもにこりと笑ってやれば、皆本さんは肩を竦めて手強いね、と眉を下げた。手強いだなんて語弊がある。それじゃあまだ自分に余地があるみたいだ。そんなわけない。隙なんてものが存在しないくらい、もう、あの夜に全て砕け散ってしまったのだから。きゅ、と眉を寄せて、自分の内を支配しそうになるモヤモヤを打ち消すように目を瞑る。接触しなければどうってことない。私たちの仕事上での接点は、殆ど無いと言っていいのだから。ふと目を開けると、ざわりと周りが騒々しいことに気付く。目の前で立っている皆本さんも眉を寄せながらそちらを見ていて、どうしたんだろうと釣られるように目を向けた。するとそこには複数の自分の部下に囲まれた先生が立っていて、何やら揉めているようだった。何があったのかと眉を寄せると、状況を解説するように皆本さんが口を開いた。「……君の忠実な部下たちが、君の注意を無視して賢木をここから追い出そうとしているみたいだよ」高みの見物を決め込んでいるのか、皆本さんは腕を組んで様子を見守っている。外側から見れば言い争っているようにも見える雰囲気に、ぎり、と奥歯を噛み締めた。「余計なことをッ」「……それはどうだろうね? 少なくとも君の部下たちは賢木があそこにいると君にとってよくないと判断して行動に移したようだよ? いい部下じゃないか」「そんなッ! 私は! 別に先生がこの場にいたってきちんと自分の仕事を全うするだけよ! 先生がいようがいまいが関係ない!」「でも、君の部下たちはそうは思わなかった。違うか?」にこにこと笑って私を追い詰める皆本さんが憎らしい。くっと眉を寄せて一旦深呼吸をしてから落ち着いて、もう一度騒ぎになっている方へと目を向けた。「……私が止めてきます」皆本さんにそう告げて、ゆっくりと足をそちらに向ける。歩いていく内に少しずつ歩調が早まったのは多分気のせいだ。近付いていく間に、オロオロとしている局長の横で先生は部下たちに腕を掴まれて、無理矢理部屋から引き摺り出されようとしていた。「何をしているの!」私の声にその場の全員がバッとこちらに振り返る。自然と先生と目が合ってしまってきゅっと眉を寄せる。不自然にならないように固まっている部下たちへと視線を移してから、状況の説明を求めた。「一体これは何の騒ぎかしら。私は放っておきなさいと伝えたつもりだったけれど、上手く意図が伝わらなかったのかしら?」キッと主犯と思しき部下を睨み付けると、びくりと肩を震わせて顔を青ざめさせながらおどおどとこちらを見つめてくる。「いえ……あの……その、中佐のお邪魔になっていると思って、自分は……」「さっきも言ったけれど、それを判断するのは私でもあなたでもないと伝えたはずよ」「……ですが」「局長と一緒に視察にいらっしゃったのであれば、我々が関与できることではありません。違うかしら?」「それは、その……」ピリピリとした空気が辺り一帯を包む。私を慕ってくれるのは構わないけれど、時々こうして暴走してしまうのは頂けない。それは自分がまだチームをコントロールできていないからだと言われてしまっても仕方がないことだし、私への思いが強すぎて暴走してしまうことは単純に悔しかった。そういったチームは時として冷静さを失い存分に力を発揮できなくなる。子どもの頃、薫ちゃんに危機が迫った時の私がそうであったように。この部隊に必要なのはいつ如何なる時も冷静に状況を分析し物事を判断する理性的なチームメンバー。だからこそ、この暴走が生まれてしまう今の状況が悔しくてならなかった。「……私の意見が聞けないというのなら、他のリーダーと変わるしかありません。それともあなたが私のチームから外れる?」私はどちらでもいいけれど、とにこやかに伝えると、サッと血の気の引いた顔で部下は先生から手を離して頭を下げた。「も、申し訳ありませんでした。以後、気を付けます」ざわざわとしていた空気が落ち着いて、人だかりが少し退く。それを冷徹に見守りながら、解放された先生をちらりと見遣った。何が何だかわからない、でも助かったという安堵感で一気に気の抜けた顔をしている先生を一瞬だけ睨み付けて顔を背ける。「いやぁ、紫穂クン! やっぱり君を立場のあるポジションに配属したのは正解だったよ。皆本くんの推薦は流石というところだね!」「いえ……それほどでも。私は職務を全うしているだけです」「謙遜は要らないよ。もっと君が動きやすいように人員配置も換えていくからね。日頃困っていることはないかね?」困っていることならある。目の前のこの男のことだ。でもそんなこと局長に頼めるわけがない。「大丈夫です。皆よくやってくれてます。むしろ私がもっと努力して勉強しなければならないことばかりですよ」当たり障りがないように場を誤魔化して、とっととこの場を去ってしまおうとにこりと微笑んだ。「では、私はこれで。まだ後始末が残っていますので」パッと身を翻して退散しようとしたところを後ろから手首を掴まれて引っ張られる。「ちょっといいか、紫穂ちゃん」きゅ、と私の手首に先生が優しく力を込める。触れたところがあつい。先生に掴まれているところだけ熱を持ったみたいにあつくて、苦しい。触れたところからは、やっぱり何も透視(み)えなかった。「……何かしら? 賢木先生」できるだけ表情を動かさないように振り返る。動揺なんて見せられない。まだこんなにも心乱されてしまう自分を認めたくない。もう放っておいてほしいのに、どうしてそんな目で私を見るの?「……あの、さ……ちょっと二人で話がしたいんだ。今日、時間あるか?」縋るように私を見つめる先生の目から逃れたくて、顔を俯ける。「私にはもう先生と話すコトなんてないの。手を離してくれるかしら」「じゃ、じゃあ! この後、五分でいいから、俺に時間をくれないか」ぎゅ、と力の入った手からほんの少しの焦りが伝わってくる。ねぇどうして?どうしてあなたが焦るのよ。私のことなんて女とも思ってないクセに。私一人くらい、相手してくれる人がいなくなったって、先生はどうってことないでしょう?ぐるぐると自分の中を駆け巡る想いにぐらぐらして、足許がふらつく。それを支えようとした先生の手を拒絶して、キッと先生を睨み付けた。「もう一分だって私は先生のために時間を使いたくないの! 離して頂戴!」じわりと滲んでくる涙が鬱陶しい。こんなところで泣くなんて本当に馬鹿みたい。びくりと身体を強張らせた先生の隙をついて、パッと手を振り払った。「……賢木クン? 紫穂クン? 何かあったのかね?」私たちの様子にただならぬ気配を察知したのか、局長が汗を流しながら私たちの仲裁に入ろうとしている。何でもない、何もなかった、と伝えようとしても上手くいかない。乱れた感情に振り回されて、とても大人の対応なんてできそうになかった。自分を落ち着けるように深呼吸を繰り返していると、先生がもう一度私の手首を掴んだ。「これは俺たち二人の問題なんで。すみません、ご心配をお掛けしました」先生が局長に向かってぺこりと頭を下げる。顔を上げた途端に私の手を引いて部屋から出て行こうとしたのに足を踏ん張って抵抗する。「なッ、なにするのよ!」「いーから。ちょっと来い」抵抗する私を無理矢理引っ張っていこうとした先生に、わっと私の部下たちが集まってくる。「中佐をどこに連れて行くおつもりですか!」「中佐から手を離してください!」「中佐は嫌がっておいでです! やめてください賢木医療部長!」あっという間に集まった私の部下たちが先生を取り囲んで私と先生の間を引き裂いた。掴まれていた手首はやっぱりあつくて、でも解放されて少しだけホッとした。「俺は! 紫穂ちゃんに用事があんの! お前らに何と言われようと! 紫穂ちゃんと話ができるまで! 帰らない!!!」部下たちに拘束されてもみくちゃになっていた先生が、抵抗するように大声で叫ぶ。部屋中に響き渡るようなその大声に、まだ部屋に残っているたくさんの人たちの視線が集まってくる。拘束具まで取り付けられそうになっている先生は、ぎゅっと眉を寄せてから、思い切り私に向かって叫んだ。「俺と! デートしてくれ紫穂ちゃん!!!」先生の声が一切の音を打ち消して、シン、と部屋が静まり返る。先生の言葉に一瞬目を大きく見開いて、でも何を言われたのかやっと理解した頭が私の表情を険しいものにした。「はぁぁぁぁ!?」何言ってんの今業務中よデートとか馬鹿じゃないのそもそももう私は先生と二人きりで会うつもりなんてないの。頭の中では次から次へと溢れ出てくる文句は上手く口から出てきてくれない。わなわなと震えるだけで言葉を発しようとしない唇は驚きすぎてその機能を停止させてしまったようだ。「さ、賢木クン!? 君は一体何を言っているのかね!? 紫穂クンとデート?! そんなのワシが許さんよ!!!」バタバタと私の横に駆け寄って、局長は顔を真っ赤にして怒っている。プンプンと湯気まで見えてしまいそうな怒り具合に怯まず、先生は更に言い募った。「俺にもう一度だけチャンスをくれ! 頼む! 紫穂!!!」部下たちの拘束を物ともせず、先生の身体を押さえつけようとしている部下たちを引き摺りながら先生が叫ぶ。何を今更。チャンスだなんてそんなもの、私たちの間には存在しないと先生が証明してみせたのに。今更、何を言って。きゅう、と胸が痛くなって、呼吸が乱れる。絡む視線が自分の動きを止めてしまったみたいに指ひとつ動かせない。じっと私を見つめる先生の視線から逃れたいのに逃れられなくて、苦しくて、仕方がない。「な、何を言ってるんだね賢木クン! もう一度ってどういうことか説明してもらうよ!?」局長は先生にツカツカと歩み寄りながら肩を怒らせている。先生はそんな局長の様子なんて目に入らないとでも言うように真っ直ぐ私を見ていた。そんな目で見ないでよ。もう私はやめるって決めたの。もう決めたんだからそっとしておいてよ。じわりと溢れそうになる涙を必死に押し込めながら唇を噛み締める。もうこれ以上、私の恋心を乱さないで。「局長、落ち着いてください。それから、賢木。今は業務中だぞ。そういうプライベートな話は後にしろ」気付けば局長と先生の間に割って入っていた皆本さんが、二人を宥めている。膝を突いていた賢木先生を起こしながら、皆本さんは私に向かってにこりと笑いかけた。「三宮紫穂中佐」「ッ……ハイッ」皆本さんに階級で呼ばれるときは大抵命令を受ける時だからか自然と背筋が伸びる。ぐしゃぐしゃに乱れていた心も少しだけ落ち着きを取り乱して真っ直ぐに皆本さんへ向き直った。「賢木修二医療部長と食事に行ってきなさい」「……え?」「これは上官命令だ。いいね?」「え? は? ちょっと、皆本さん?」「そうだな……この週末の金曜日なんてどうだ? 二人とも予定は空いてるはずだ」「み、皆本クン!? どうして君が話を進めちゃってるのかな?!」「この件に関して自分の介入が必要だと感じたからですよ、局長。さ、賢木。僕と一緒に局長室へ行こうか」「は? えぇ!? 皆本?!」「これを乗り越えられないようじゃ、先には進めないよ。賢木」じゃあ現場の後始末は各自頼んだよ、とにこやかに告げて、皆本さんは局長と先生を引き摺りながら部屋から出て行ってしまう。取り残された私は、何が何だかわからなくて固まってしまっていた。「……中佐……だいじょうぶですか……?」恐る恐る、と言った様子で部下に声を掛けられて、ハッと意識を取り戻す。「え、ええ。大丈夫よ。とにかく、現場の撤収と後始末を済ませてしまいましょう。いいわね?」「ハイッ」頬を上気させて現場の指揮へと戻っていった部下たちの背中を見送りながら、一体何がどうなってしまったのだと思わず額に手を当てた。私が、先生と食事?しかも皆本さんの上官命令?そんなの。そんなの、絶対逃げられないじゃない。目の前でバタバタと進んでいく現実が、薄い壁の向こう側で起きていることみたいに遠く感じた。

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