「……のみやさん! 三宮さんっ! 授業始まっちゃうよっ!」「……へ?」誰かに身体を揺すられて、ガバリ、と身体を起こした。どこなの? ここは。目の前で不思議そうに私の顔を覗き込んでいる彼女は一体誰なんだろう?どうやら私は、学校と思しき場所で、机に突っ伏して眠っていたらしい。ということは、つまり、先生の記憶の中に取り込まれた、と考えていいだろう。そろりと自分の身体に触れると、しっかりと実感があって、これがただの仮想空間ではないことがわかる。身に付けているものは見たこともないセーラー服。女子全員が同じものを着ているから、恐らく、先生が通ってた高校の制服なんだろうか。男子は全員詰め襟で――先生の制服は学ランだったのね。初めて知る先生の学生時代にどきりとしながら、冷静に周囲から集められるだけの情報を集めていく。周りの生徒の体格から、ここは高校にあたるのではないかと予測する。ご丁寧に用意されていた机の中の教科書を確認してみると、やっぱり高校の内容のものばかりが出てきて。――ここは、高校生の頃の、先生の記憶の中なんだわ。今度は確信を持って、教室の中をキョロキョロと探してみても、当の本人らしき姿は見つからない。そもそも、私は先生の高校生の頃の姿なんて知らなくて。でも、きっと私なら見付けられるはず。「……ちょっと気分が優れないみたい。次の授業、保健室で休んでるわ」先程声を掛けてきたクラスメートと思われる少女に伝えて教室を出る。所詮、先生の記憶の中だし多少行動に粗があっても問題ないか、と廊下に出てすぐ壁に手を突いてサイコメトリーを発動させた。学校に来ていなければ意味がないけれど、ここで私が目覚めたということは、学校の何処かに必ず先生はいるはずで。キィィィン、とフルパワーで学校の全てを透視していく。各フロアを丁寧にスキャンして、屋上までたどり着いたとき、見慣れた髪形の少年が一人、屋上で寝そべっているのが透視(み)えた。見つけた……ちゃんといてくれた!思わず涙が零れそうになるのを何とか堪える。まだ再会を喜ぶのは早いと自分を叱咤してゆっくりと目を開く。壁からそっと手を離して、屋上へ走り出そうと振り返ると、数人の生徒がこちらを見ながらヒソヒソと陰口を叩いている姿が目に入った。「見た? 今の」「うん。エスパーだよね? サイコメトリー?」「あぁ、あの天才と一緒だ」「そうそう、賢木くんもサイコメトラーだよね」「怖いよね、近付けないよ」「ホントホント。何を読まれるかわかったもんじゃない」表情もなく、口々に何かを言っている生徒たちを一瞥する。「ちょっと通りたいんだけど。退いてくれる?」あまり、先生の高校生活は明るいものではなかったのかもしれない。公然とエスパーに対して暗い気持ちをぶつけてくる生徒たちの間を、ピンと背筋を伸ばして颯爽と通り抜けた。こんな世界で、先生は一人、戦ってきたのね。前に先生が言っていた、自分は普通人の世界で生きてきた、という話は、想像していた以上に壮絶だったのかもしれない。生徒たちの喧騒から逃れるように、タタッと廊下を駆けて、屋上へと向かう。久々に聞いたエスパーへの言葉の暴力に、ひどく心がささくれ立つ想いをしながら階段を駆け上がった。屋上の扉が見えて、錆びた取っ手を両手で掴んでから深呼吸をする。――この先に、先生がいるはずだ。上がる息を整えて、ギッ、と重い扉を押し開けた。途端、ビュウと吹いた風に髪が煽られて、視界が悪くなって。乱れた髪を撫で付けて前を見ると、一人の男の子が空を見ながら寝転んでいた。急いで駆け寄りたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと、近付いていく。一歩ずつ、歩を進める度に、鼓動が速くなっていくようだ。見慣れた髪形に、知っている顔を少し幼くした顔。知っているよりも、体格も少し小柄で。初めて見る高校生の姿をしている先生に、思わず言葉が詰まった。「……探したよ、センセ」掠れた声で呟くと、高校生の先生が、ゆっくりとこちらを向いた。「……君……誰?」いつも私の姿を映してくれる深い色の目がそこにあった。先生はぱちくりと不思議そうに私を見ていて。無事、出会えたことにホッとして、また涙が溢れそうになった。何とかそれを堪えて、先生に掛ける次の言葉を探していると、学校のチャイムが鳴り響いた。ざわついていた学校が一気に静かになって、授業が始まったことを悟る。「……授業、受けなくていいの? センセ」「……出席日数さえ足りてれば何とかなるよ」そう言って身体を起こした先生は、私を振り返る。私の知っている先生よりも、幾分幼い雰囲気の先生は、恐らく高校一年生くらいだろうか? ちょんちょんと跳ねた独特の癖毛だけは変わらずに、顔の作りが幼くて、すごく可愛らしい。自然と高鳴る胸を押さえながら、先生を見つめ返すと、先生は小首を傾げて、人懐っこい笑みを浮かべてから、私に向かって口を開いた。「君こそ、授業受けなくて平気なの?」「……私は……いいの」だってこの世界の人間じゃないし、と心の声で呟く。先生の笑顔が知っているものよりも幼いことにドキドキしてしまって、思わず目を反らした。「顔赤いけど、大丈夫?」「……平気よ。気にしないで」「ふーん?」先生に指摘されて余計に顔が赤くなった気がするけれど、気にしていられない。何とかこの先生から、記憶をブロックしている鍵を見つけ出さなければならない。先生をパンドラへなんて、私が絶対に行かせない。「……先生、ここで何してたの?」気持ちを切り替えるように先生に問いかけると、先生はきょとんとした目で私を見つめてきた。本当は、この先生にサイコダイブしてしまって、記憶を辿ってしまう方が簡単なんだと思う。でも、これ以上深く潜ったら、本当に戻れなくなる可能性がある。それくらいここは深い場所だということは体感できた。それに、先生には透視を使わない、という習慣が自分でも驚くほど身に付いてしまっていて、いくら緊急事態とはいえ、これ以上、先生の心に直接触れることは憚られた。何とか目の前の先生から少しでも情報を得ないと、私は多分この記憶の世界に取り込まれて終わってしまう。「何って……見てわかるだろ? サボりだよ」私の記憶にある先生の声よりも少し高めの、幼い声が答えた。「サボりって……先生はこの頃からそんな不真面目だったの?」「不真面目じゃねぇよ。授業なんか受けなくてもわかるってだけ」「私には真面目に授業受けろって言うくせに。自分は棚上げなのね」「……俺は君と初対面だと思うんだけど。俺、そんなこと君に言ったっけ?」先生に言われて、どきりとする。当然だ。この先生は私を知らない。知っているはずもない。なのに、その事実に衝撃を受けてしまって、思わず身体が固まった。「それに……さっきから俺のこと、先生って呼ぶけど……俺、そんなあだ名で呼ばれたことねぇんだけど」一体、君は誰? と問われて、答えに窮してしまう。どこまで、先生の記憶に介入してもいいんだろう?私はこの頃の先生のことを一切知らない。先生は昔の話をしたがらないから、私も敢えて触れずにいた。それが、今は仇になっている。この先生に、会話を合わせることができない。「君みたいな可愛い子、知ってたら名前も顔も忘れるワケないんだよね。だから絶対初対面だと思うんだ」にこっと再び目を細めて、先生は人懐っこい笑みを浮かべている。「俺、賢木修二。初めまして……だよね? ねぇ、君の名前、教えてよ」身体を起こした先生がゆっくりと立ち上がって、私の真正面に立つ。身長は私より少し高いくらいで、見たことのない詰め襟姿にドキドキしてしまう。身体を少し傾けて首を傾げる仕草は、まるで小悪魔みたいで。この頃から健在らしい、先生の独特のオーラに辟易する。高校生の頃にはもう、こんな風に女の子引っ掻けて遊んでたのかしら。生粋のチャラさに舌を打ちながら、唇を尖らせて答えた。「……三宮、紫穂よ」「へぇ……三宮紫穂さん。可愛い名前だね?」ニッと笑ってみせる先生の笑顔が、私の知っている先生と被る。間違いなくこれは先生なのだと改めて思い知って、カッと赤くなる頬を隠しながら、先生に向かって呟いた。「先生、ふざけないで」「だから、俺は先生じゃないって。賢木修二。三宮さん?」「……えぇ。えぇ、そうね。賢木くん」私のことを知らないという先生に、頭では理解できても、心が追いつかなくて負けそうになる。こんなことでは駄目だ。先生の記憶を取り戻す鍵が、絶対ここにあるはずだ。目の前の先生が私を知らないくらい何だって言うの。負けてはダメだ。気を強く持たなければ。慣れない呼び名にぞわぞわしながらも、何とか平常心を装う。ふわりと微笑んだ先生が、私の顔を見つめながらそっと口を開いた。「三宮さんも、サボりに来たの?」「……そんな、ところよ」「……じゃあさ、この場所は譲るよ」「え?」「俺と一緒じゃ、落ち着かないでしょ?」じゃあね、と笑顔で立ち去ろうとする先生が私の横をすり抜けていく。「ま、待って!」「ッ!」咄嗟に先生の手を掴むと、バッと手を振り払われた。その勢いに圧されて後ろに転びそうになりながら、慌てて先生を見ると、先生は驚いた表情で私を見つめていて。その顔は少し青ざめていた。「ご……ゴメン。三宮さん……怪我はない?」「……大丈夫。びっくりしただけ」「そっか……信じてもらえないかもしれないけど、何も透視(よ)んでないから。気にしないで」じゃあね、と再び私に背を向けて立ち去ろうとする先生を、今度は腕ごと捕まえた。サイコメトラー独特の、過剰反応。触れたら透視(み)える。それを避けるための、接触を避ける行為。この頃の先生は、まだ自分の力をコントロールできていなかったのかと悟った。そんな状態で、こんな学校に所属していたというのなら、想像を絶する地獄だろう。自然と痛む心を宥めながら、先生に逃げられてしまわないよう、しっかりと腕に力を込める。「ま、待って! お願い、行かないで!」「はぁ!? ちょ、お、俺に触るな!」先生が無理矢理私から逃れようとするのを何とか力付くで抱き込んで、しがみ付くように先生を足止めする。「ちょ、む、胸! 胸当たってるから!」「だって離したら逃げちゃうでしょ?!」「でも! 触れてたら透視(よ)んじまう!」照れだけではない、恐怖を含んだ面持ちで先生が叫んだ。「じゃあ透視(よ)めないようにしてあげるから逃げないで!」回せる力の全てを使って自分にプロテクトを掛けていく。先生は私の言っている意味がわからないのか、ジタバタと暴れながらまだ抵抗してやめろとか離せとか叫んでいる。高超度で同じ能力を持っている先生に潜るのは、かなり神経を使うし意識を集中させないと難しい。だから正直あまり余裕がないけれど、半ばヤケクソになりながら全身のどこからも透視できないようにプロテクトを掛け終えた。「……さぁ! 透視(よ)んでみなさいよ!」「んなこと言われても! 俺、今、力が不安定だから! ……って、アレ?」「……透視(よ)める?」「なんで? 透視できない」顔中に疑問符を浮かべている先生はとても間抜けで。思わずクスリと笑ってしまった。「だって……私もサイコメトラーだもの」「嘘……マジで?」「えぇ。私はレベルセブンのサイコメトラーよ」先生は目を見開いて私を見つめている。ポカンと呆けたように口を開けている先生の表情に、もう逃げたりはしないだろうと判断して、そろりと腕を解放した。それでも念のため、両手で先生の手を掴んでおく。その手は、自分が知っているよりも小さくて、ほんの少し、柔らかい。大人の男の人の手じゃないそれにそわそわしながら、じっと先生の目を見つめ返した。「嘘、だろ……? 俺より高超度のサイコメトラーは……日本に存在しない、はず、じゃ」「……そう、なの?」先生の告げた言葉に、思わず目を見開く。知らなかった。私が産まれるまでは、先生が国内最高超度のサイコメトラーだったなんて。蕾見ばーちゃんや兵部少佐は例外扱いだろうから、当然なのかもしれない。自分たちチルドレンが存在するから、高超度といえばレベルセブンという基準ができてしまっているだけで、普通に考えればレベルシックスだって充分高超度だ。普通人に交じって過ごすことは難しいと思う。それなのに。先生は私より酷い環境で、ずっと一人で生きてきて。今まで見せてくれていた笑顔の裏に、どんな苦労が隠されていたのか、考えるだけでも背筋が冷えてしまう。「三宮さん……もしかして、バベルの職員?」「え?」「いや……バベルにはすっごい能力者がいるって噂、聞いたことあるからさ」君のことなのかなって、と続ける先生は、恐る恐る私の様子を窺っていて。「あぁ……違うわ。あの人は、私とはまた別の人」「じゃあ……君は、一体……」先生が、訝しげに私を見つめている。もう、ここまできたら、素直に話してしまってもいいのかもしれない。ふぅ、と息を吐いて、先生の目を真っ直ぐ見つめ返す。「私、未来から来たの」「……はぁ?」「先生が大人になった未来から、私は来たのよ」掴んだままの先生の手にぎゅっと力を込める。先生は、信じられないとでもいうような表情を浮かべて、私を凝視していた。「……その……さっきから言ってる『先生』って、未来の俺のことなのか?」先生が、恐る恐る私の手を握り返して、空いた手で私の肩を掴む。それから血相を変えて、先生は私に詰め寄った。「教えてくれ! 未来の俺はどうなってる?!」「ちょっ、痛い! 痛いわ!」「あっ……ご、ゴメン……」パッと肩から手を離した先生は、申し訳なさそうに俯いた。拙い繋ぎ方をしている手にきゅっと力が入って指先が絡み合う。その指先から、じわりと先生の不安が伝わってきた。眉を下げて微笑みながら、先生の手を握り返す。「……大丈夫。ちょっと痛かっただけだから」「本当にゴメン。つい、力んじゃって」申し訳なさそうに顔を俯けた先生に、恐る恐る問いかけた。「何が不安、なの? そんなに……未来が、知りたい?」繋いでいた先生の手がピクリと震える。先生は表情を一瞬だけ強張らせて、するりと私の手を解いた。それから、曖昧な笑顔を浮かべて、先生は私に背中を向けてしまう。「勝手に透視(よ)むなよ……誰だって、未来は気になるだろ」「ごめんなさい。透視(み)るつもりはなかったの。私だって、レベルセブンだから。透視するつもりがなくても透視(よ)んじゃう時があるのよ」わかるでしょ? と呟くと、先生はちらりとこちらを見て苦しそうに眉を顰めた。「……レベルセブン、っつっても……その程度なんだな」もっと上手くやれるのかと思った、と先生は自嘲するように呟いた。先生のその言葉にムッとして、思わず言い返そうとすると、先生は今までの表情を隠すようにまた人懐っこく笑って、私に告げた。「とにかくさ。俺のことは放っといてくれよ。未来から来たバベルの三宮さん」柔らかい笑顔は親近感を与えるのに、突然目の前に現れた、見えない壁のようなものにたじろいでしまう。先生のこの笑顔は、人を寄せ付けているようで、実は本心を見せないためのカモフラージュだったのかもしれない。そのことに気付いてしまったら、先生の歩いてきた道程が本当に険しく思えて。先生が私に掛けてくれた言葉の数々が、急に重みを増して私の中で膨らんでいく。「ダメよ! 先生! 行かせない!」「だから! 俺は先生じゃないって!」「じゃあ、行かないで、賢木くん! これで満足ッ?!」「満足とかそういう話じゃなくて! もう俺に構うな!!!」「そういう訳にはいかないのよ! 私はアナタから鍵を引き出さなきゃいけないの!」「はぁ? 鍵? 何の話だよ」何言ってんだ、とでも言いたげな呆れた表情で先生は私を見ている。この過去の姿をした先生に、記憶の鍵となる隠された何かがあるはずだ。それを見つけ出さないと、先生の記憶は消えてしまう。どんなことがあっても、それだけは避けなければならなかった。「未来の貴方は、今、自分の記憶に鍵を掛けられてる状態なの。鍵を見つけて助けなきゃ、記憶が封じられてしまう」「急にそんなこと言われても……信用出来るわけないだろ」「……わかったわ。なら、私を透視するといいわ」それなら信用できるでしょ? と先生に向かって手を差し出す。先生はゆるゆると首を振って、それを拒否した。「……できねぇよ。俺、さっきも言ったけど……今、力の発動が、不安定なんだって」「大丈夫。先生ならできるわ」そっと、自分から先生の手を掴んで、にっこりと微笑みかける。すると先生は、少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向きながら私の手をきゅっと握り返した。「……じゃあ、やってみるけど。余計なモン透視(よ)んじまっても、怒るなよ」「透視(よ)みやすいように、他はプロテクト掛けておくから大丈夫よ」安心して? と優しく声を掛けると、先生は納得がいかないという顔をしながらも、いくぞ、と力を発動させた。キィン、と、緩くゆっくりと、先生の力が入り込んでくるのがわかる。不安定というのは、あながち間違いではないようで。透視の深度が、ゆらゆらと揺れている。それでも、表層に浮かべた、先生との記憶は、ちゃんと透視(よ)めるはずだ。「三宮、お前……本当に、未来から来たんだな?」「やっと認めてくれるの?」「……というより……未来、なのか? 大人になった、俺? が透視(み)える」何か不思議な感じだ、と先生は呟いて私を見た。「何か、これが俺の未来ですよって急に言われても、全く現実味がねぇ」「じゃあ答え合わせしてみる?」「答え合わせ?」「アナタが今透視(よ)んだことと、私の知ってること。解が同じで解説も聞けたら、アナタも合点がいくでしょう?」まぁ確かに、と言って先生は納得したようだった。先生はぽつぽつと透視した内容を私に向かって話す。「黒い学ランの男と喋ってたら、ぶっ倒れたな」「黒い学ランの男は兵部少佐。先生をパンドラという組織に引き込む為に、記憶を封じる何かを仕掛けたの。先生はそれで意識を失ってる」「パンドラって、あの犯罪組織の?」「えぇそうよ。兵部少佐はパンドラのリーダー。先生を引き抜きに来たんですって」「俺……未来で悪人やってるのか?」「いいえ。先生は、バベルの職員よ」「そっか……俺、バベルで働くのか……」少し安心したような表情で、先生は呟く。少しずつ信用が得られているのか、先生は力を安定させて更に潜ってくる。それに身を預けながら、にこりと笑って先生に問いかける。「次は? 何が見える?」「白衣を着た……俺? と、病院の検査服? みたいなのを着た君、が透視(み)える……」「あぁ、この前の任務の時ね。女性技師が空いてなくて、先生しか居なかったから。そのまま検査してもらったの」「検査?」「任務の後に、超能力中枢に異常がないか調べる検査よ」「俺も検査技師か何かなのか?」「先生はお医者様よ。バベルきってのね」「……そっか……俺、やっぱ医者になるんだ」今度は妙に納得したような顔をして先生は呟いた。「……どういうこと?」「俺、母方のじぃさんと暮らしてるんだけどさ。じぃさんが医者で、俺の力を使って医者にならないかってすんげぇ薦めてくるんだ……」「でも……あまり乗り気じゃないのね?」「だって、気持ち悪いじゃん。サイコメトリーとか」自虐的に笑ってみせる先生に、私は何も答えられなかった。「……それに……昨日、もっと気持ち悪い能力、発動しちまったし」空いた方の手を見つめて、先生は眉間に皺を寄せて呟いた。「……生体制御、ね?」「なんで知って……ってそうか。君は未来から来たんだもんな」知ってて当然か、と言う先生は、ぼんやりと遠くの方を見ていて。側にいて、手を触れ合わせているはずなのに、すごく遠くの存在のように感じる。離れていってしまいそうなその手をきゅっと握り返しながら、眉を寄せてじっと先生を見つめた。「……なぁ」「なぁに?」「俺は……この力を、ちゃんと使えてるのか?」先生が、恐る恐るといった様子で、私に問いかけた。怯えるように揺れている目が、私を見つめ返している。今の先生は、自分の力を受け入れられなくて、気持ち悪いと感じているんだ。直感的にそう感じて、先生の手をそっと両手で包み込む。自分の力を嫌悪することがどれだけ辛いことか、私もよく知っている。「私たちはどこへだって行けるし、何にでもなれる」「え?」「私たちの大切な人が、私たちにくれた言葉よ」皆本さんの、今でも心に残っている、大事な言葉。この言葉に救われたエスパーは、きっと数え切れない。先生が、皆本さんに出会うのはあと五、六年先のことだろうか。それまで、記憶の中の先生は、救いもなく、ひとりきりで生きていくのだろうか。「自分の力を、気持ち悪いだなんて思っちゃダメ」「いや! どう考えたって気持ち悪いだろ! 傷が、さっきまで血がどくどく溢れてた傷が! みるみるうちに治ってくんだぞ!」そんなんもう化けモンじゃねぇか! とキッと私を睨み付ける先生は、今にも泣きそうな顔で私の言葉を否定して。今の先生を知っているからこそ、自分の力を気持ち悪いと言う先生がとても悲しい。どれだけのことを乗り越えて、先生は今の先生になれたのだろうか。「先生は! お医者様として! 誰からも尊敬されてるし、自分の力をちゃんと活かせてる!」だからそんなこと言わないで、と先生の手を掴む手にぎゅっと力を入れた。そうでもして堪えていないと、涙が溢れてしまいそうで。でもきっと、先生は、私が泣くことなんて望んでいない。先生は、過去を泣いて悲しむより、笑って話すことを望むはず。だから、今できる精一杯の笑顔を先生に向けた。「先生はひとりじゃないわ」先生の手に指を絡めて、きゅう、と胸元で握り締める。少しでも、あたたかい気持ちが伝わるように。傷付いた先生の心を癒やせるように。きっと、これが鍵だ。兵部少佐は、一人きりの、救いなんてなかった頃の先生に記憶を戻して、パンドラの新しい家族として受け入れようとしている。そんなのダメだ。明るい光の中で生きることを選んで、今の先生があるのだと信じたい。「私も……未来で、待ってる」堪えきれなかった涙が一粒だけ、頬を伝う。先生が、眉を下げてそれを親指で拭ってくれる。「泣くなよ……君に泣かれると、俺、どうしたらいいかわかんなくなる……」その優しい表情に、今の先生の面影が見えて、思わず胸に飛び込んだ。「ちょッ! 三宮さん?!」「ごめんなさい。今だけ。こう、してて」先生の面影を掻き寄せるように、制服に包まれた背中へ爪を立てて縋る。先生が好き。先生は、私の特別なの。言葉にできない想いを心の内で告げながら、先生の身体を抱き寄せた。記憶の中の先生よりも、小さな身体。それでも、間違いなくこれは先生の身体でもあって、どこかしら今の先生を感じてしまう。そっと、恐る恐る私の背中に手を回してくれた先生に甘えて、背伸びしなくても届いてしまう先生の肩口に顔を埋めた。「……なぁ……三宮さん?」「……ごめん、なさい……今、離れる、から」「いや、違うんだ……あの、さ」私の身体を抱き締める腕に、ぎゅっと力が入る。ふと、顔を上げると、ちらちらとこちらの様子を窺うような視線を先生は私に向けていた。「俺たち、その……そういう関係、だったの?」言い終えてから、カァァと顔を赤くして、先生は私から目を逸らしてしまう。いかにも高校生らしい初々しい反応に、何だかこちらまで恥ずかしくなってしまって。そっと先生の胸を押して、身体を離した。「え、えっと……そ、そうね。そういう関係、ってことに、なるのかしら」自分の顔も負けず劣らず赤くなっている気がする。俯きながら何とか答えると、先生はえっと、と呟きながら更に問いかけてきた。「透視(み)せてもらった内容からして、多分……俺、歳上……だよね? 三宮さん……あの……今、いくつ?」「……十七……高三よ」誤魔化すことでもない、とおどおどしながらも素直に答えると、先生は目を見開いて。うっわ俺より二つも年上じゃん! と先生は顔を覆いながら叫んだ。それに何だか複雑な気分になりながら、本当の先生は私より一回りも年上のクセに、と心の中で独り言ちた。「……そっかー……俺、年下の女の子と付き合うのかぁ……」「……ナニよ。何か問題あるの?」「いや? こんな可愛い子を彼女にするなんて……未来の俺、やるなぁって」にかっ、と顔を赤くしたまま先生は私に笑いかける。あんまりにも嬉しそうに言う先生が、何だかすごく可愛く思えて。思わずクスリと笑ってしまった。「ナニよ、それ……」「いや、大事っしょ! 可愛い彼女がいるってだけで、すっげー生活潤うよ!?」「……そーいうものなの?」「そーいうもんなの!!!」先生は嬉しそうに叫んでから、ふっと表情を暗くして、自嘲気味に笑った。「俺……君に会うまで、もう死んでもいいやって自棄になってたけど……俺の人生も、どうやら捨てたもんじゃなさそうだ」そう切なげに告げた先生がふと遠くを見るように視線を逸らすと、チカリ、と先生の影で何かが光る。それは光る引き出しを見つけた時と同じ光のような気がして、ついに答えを見つけた、と目を見開いた。「……自殺、する気だったの?」「そこまでじゃねぇけど……昨日、任務で大怪我してさ。死ぬかもって思ったら、みるみるうちに傷が治ったんだ。普通ビックリするじゃん? で、生体制御が発動しちまったせいで、最近やっと安定し始めてたサイコメトリーもまた不安定になっちまって」そこまで一息で言い切った先生は、ふぅー、と長く息を吐いて空を仰いだ。「エスパー候補生から、訓練生に格下げになって。ちょっと久々に大人たちの目が痛かった」ゆっくりと、壁に凭れ掛かりながら、先生は目を閉じた。大人たちの勝手さや、視線の意味は、私もよくわかっている。それでも、私には、薫ちゃんや葵ちゃん、それに皆本さんがいた。でも、先生には、誰もいなかった。今更ながら、先生の過去に何もしてあげられない非力な自分を呪った。「仕方ねぇんだけどさ。人から見て気持ち悪い力を二つも持ってて、しかもそれが上手く使えなくて。大人からすりゃ、いい加減にしろよって話じゃん」先生はそう言って、眉を下げて笑った。私は、何も答えてあげられなくて。本当に、どれだけの悲しみや苦労を、その笑顔の下に隠して生きてきたんだろう。斜に構えて、世界全部を敵だと見なして大人ぶっていた子どもの頃の私とは、全然違う。先生の、上手くやれ、と言っていた言葉の重さがずしりと私の心にのし掛かった。「……どうして……そんなに、笑っていられるの?」やっと出てきた言葉は、涙声で揺れていて。泣いてばかりの自分が、どこまでも情けない。それでも、と先生に寄り添って、きゅっと先生の手を掴んだ。少しでも支えたい。力になりたい。側にいたい。そんな気持ちを込めて、自分が知っているよりも遙かに小さくて柔らかい、まだ少年の手を両手で包み込んだ。先生はそれを素直に受け入れて、また小さく笑った。「……死んだお袋に、言われたんだ。何があっても、笑ってなさいって」また知らなかった事実を聞かされて、目を見開く。私は、あまりにも、先生のことを知らないんじゃないだろうか。そんな私の様子を見て、先生は困ったように笑いながら顔を俯けた。「……そっか……君は知らないんだな……まぁ、俺のことだから……あんまり自分のことベラベラ人に喋るわけねぇよな」苦笑いをしてみせる先生に、悔しくて、思わず唇を噛んだ。私は、先生のことを特別だと思ってた。先生も、私のことを唯一だと言ってくれて。でも、私は先生のことを何も知らない。先生は、私のことを小さい頃から知っていて。なのに、私は先生のこと、本当に何も知らない。気付かずに甘やかされていた自分を思い知って、堪えきれなかった涙が溢れていく。「泣くなよ……君に泣かれると、本当に困るんだ」記憶よりも幼い手が、私の頬を撫でて涙を拭っていく。知っているより幼くても、そこに居るのは先生で。思わず心の嗚咽が漏れた。「私ッ……修二のこと、何も知らないッ」どんどん溢れてくる涙が先生の手を濡らしていく。先生は苦しそうな表情を浮かべて私を見つめた。「そんなの……未来の俺が、何も話さないのが悪いんじゃん。君は悪くない」だから、泣くなよ、と先生は優しく微笑む。その表情が、大好きな先生の表情と被る。「三宮さんはさ、過去なんて知らなくても、目の前にいる、未来の俺を見て、俺のことを好きになってくれたんだろ?」先生の問いかけに、声も出せずにこくりと頷く。私の頬を包んでくれている先生の手に、自分の両手を重ねた。「ならさ……過去なんか関係ないじゃん。俺は俺だよ」「……でも」「……あーあ! 未来の俺、彼女を泣かせてばっかじゃん!」てんでダメな男だな! と先生は叫んだ。その表情は本当に悔しそうで。すっと目を細めて私を見つめた先生が、自然な動作で私の顎を持ち上げる。「未来の俺なんか、止めといて……俺にしなよ」じっと見つめられて、あ、キスされる、と思った瞬間、ピシリ、と空間にヒビが入った。「そりゃ聞き捨てならねぇな」大きな手が私の口許を遮る。「紫穂は俺のだ。お前のじゃない」パリンと何かが割れる音と共に、先生が現れた。心から焦がれていたその姿に、ぎゅっと胸が苦しくなった。「セン、セ……」「いい加減、紫穂から離れろ。いくらお前でも渡せねぇ」「……お前が……未来の俺、なのか?」高校生の先生が目を見開いて、一歩後ろへと下がる。その隙に先生は私たちの間に身体を滑り込ませて、私を守るように私の前に立ちはだかった。「信じらんねぇだろうけどな。ここは兵部に作り込まれた俺の記憶の中の世界だ。お前は過去の俺。時間軸を返してもらうぞ」そう言って先生は、高校生の先生に向かって手を翳した。すると、周囲が光に包まれて景色が溶け始めていく。高校生の先生は、何かを理解したような顔をして、私たちに向かって言った。「紫穂をこれ以上泣かすなよ!」「……お前に言われなくてもわかってる!」先生が高校生の先生から私を隠すようにぎゅっと私を抱き寄せる。その感触は、間違いなく私の知っている先生と同じもので。今度は嬉しくて涙が溢れてくる。縋るように先生の胸に顔を埋めると、先生が優しく頭を撫でてくれた。「言ってる側からまた泣かせてんじゃん」「バッ! これは嬉し涙なのッ!」揶揄うように言った高校生の先生に、必死な声で先生が応戦する。そのやり取りに何だか気が抜けてしまって、笑いが込み上げてきて。高校生の先生がフッと笑って私たちからもう一歩離れていく。「逃がすなよ。未来の俺」「わかってる。今で充分、お前の分にお釣りが出るくらいに幸せだ。一生離さねぇよ」先生の言葉を聞いて、にこりと笑った高校生の先生は、光が弾けるように消えてしまった。あっという間の出来事に、私は立ち尽くしていることしかできなくて。「戻るぞ。これ以上は、いくら紫穂でも限界だ」先生に声を掛けられて、ハッとして先生に掴み掛かった。「でも! まだ鍵を見つけてない!」「もう鍵は消滅したよ。その証拠に俺が介入できてるだろ?」「……本物の先生なの?」「あぁ。正真正銘、今の時間軸の俺だよ」「証拠は? 少佐が化けて私を騙そうとしてるんじゃないの?」疑いの目を向ける私に、先生はプッと吹き出した。「……紫穂らしい発想だな」そろりと腕の中から解放した私の手を取って、先生はゆっくりと歩き出した。私はそれに、黙って着いていくことしかできない。「……鍵は、過去の俺が未来に希望を抱くことだ」歩きながら、先生はゆっくりと話し始めて。私は黙って先生の話を聞きながら、先生の隣に並んだ。「あの頃の俺は、絶望のど真ん中みたいなとこにいたからなぁ」笑いながら話す先生に、少しだけ胸の痛みを覚えながら、先生の手をきゅっと握り返した。先生はそんな私に微笑んで、繋いだ手に指を絡めてくる。「兵部はそこまで俺の時間を巻き戻せば、パンドラに引き込めると踏んだんだろ」まぁ、あながち目論見は外れてねぇよな、と先生は感心したように言った。じゃあ、先生は。高校生の頃、兵部少佐に出会っていたら。パンドラの賢木修二としてこの世に存在することになっていたのだろうか?ふと不安になって、先生の手をもう一度握り返すと、透視(よ)まれてしまったのか、先生が立ち止まって不安を取り除くように私を優しく見つめた。「過去は変えらんねぇし、俺は俺だよ」どこにも行かねぇ、と先生は私に向かって告げた。「本物の俺だって、少しは信じてくれた?」身体を傾けて、小首を傾げる仕草に、ふ、と笑みが溢れる。「……ばか」何だかいろいろなものが溢れてしまって、思い切り腕を伸ばして先生の胸に飛び込んだ。それを笑って受け入れてくれる先生に、やっぱりこれは本物の先生だと安堵に包まれる。先生の広い背中へ回した手に、ぎゅっと力を込めた。「……さぁ、浮上するぞ」それに応えるように、ぎゅうと抱き締め返してくれた先生が耳許で呟く。目を開けたら、またその目に私を映してくれる?心の中で問いかけて、先生の胸に顔を埋めながら二人で光に包まれた。
夢の中へ



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