三年目のバレンタイン

「今年は何くれんの?」数日前から、この日が来るのを楽しみにしている自分を、俺ははっきりと自覚していた。こんなにバレンタインが楽しみだと感じるのは、一体いつ振りだろうか。俺の研究室に入ってきた紫穂ちゃんの後ろ手に小さな紙袋が見えて、ここのところふわふわと落ち着かなかった心が更にウキウキと浮き足だった。「別に。まだ、あげる、なんて言ってないわ……」「マジで!? 俺、何気に超楽しみにしてたんだけど!」少しずつ少しずつ、距離を縮めてきた俺たちの、普段通りの言葉の応酬。今の俺には、紫穂ちゃんの言葉が実は照れ隠しの意味だってことはもうわかっている。「俺に、くれんじゃねぇの?」ん? と両手を差し出して尋ねる。すると、年々ラッピングに気合いが入っていく紙袋がおずおずと差し出された。「仕方ないから……先生に、あげるわ」「サンキュ!」うわー今年は何だろう、と周りから見たら多分引くくらい浮かれながら、可愛らしいラッピングのリボンを解いた。紫穂ちゃんをイメージさせる薄紫のリボンを、大切にデスクに置いてから中身を確認すると、おぉ、今年はガトーショコラ。あとで珈琲入れて早速頂こう。「紫穂ちゃん、今年もありがとな! 嬉しいよ」丁寧に紙袋を元に戻しながら、にっこり笑って紫穂ちゃんにお礼を伝えた。今年のお返しは何が良いだろう?去年は学校でも使えるようなものを、と俺も愛用しているブランドのシャープペンシルを選んだ。今年はもうすぐ卒業も待ってるから、もう少し大人びたモノを送るのも良い。「……センセ」いろいろと妄想していた俺の耳に、少しだけ震えた声色の紫穂ちゃんの声が届く。「ん? どした? 紫穂ちゃん」「……あの……あのね」頬を染めた紫穂ちゃんが、俺を真っ直ぐに見つめてくる。可愛いなぁ、と思うと同時に、本能的に俺の頭の中で警笛が鳴り響く。咄嗟に話題を変えようとしたのが間に合わず、紫穂ちゃんが口を開いた。「センセイが……好き」「……え」警笛が警報へと変わる。はぁ、っと深く息を吐いて、紫穂ちゃんは目をきゅっと閉じている。両の指をスカートの前で、もどかしげに組んで、ゆっくりと目を開いた。まるで睫毛がぱさりと音を立てたのがここまで聞こえてくるような、そんなドラマチックな瞬間が目の前で展開されている。「私、先生が好きなの」紫穂ちゃんらしい、意志の強い目が俺を射抜いている。赤く染まった目許はうるりと薄い膜が張っていて、ゆらゆらと大きな瞳が今にも溢れそうだった。そんな目に見つめられて、俺は身動きも、呼吸もできなくて。思わずごくりと喉を鳴らした。「私と、付き合って」「……っ」紫穂ちゃんの言葉に、頭の中が真っ白になって何も返せない。こんな場面、今までに何度だって経験してきたはずなのに。俺はその時、一体どう対応していただろう。「……何か言ってよ、センセイ」「や……あ、うん。ゴメン……」そう言ってしまってからハッとして口元を押さえる。「あ! ゴメンってそういう意味じゃなくて! その……えっと……」しどろもどろになりながら、何をどう答えればいいのかと頭を空回りさせていると、ふぅ、と息を吐いた紫穂ちゃんが、眉を下げて小首を傾げた。「知ってるわ。先生が私のこと好きなのも、まだ付き合うとか、そういうの全く考えてないのも。全部知ってる」「へっ!?」「だって……透視(み)たもの。こっそり」ひらひらと紫穂ちゃんの手のひらが俺の前で揺れて、紫穂ちゃんは申し訳なさそうに笑った。「はぁ?」お嬢さん。今、何と?いや。あの、ゴメンね、なんて可愛らしく笑って誤魔化している場合ではない。誰が、誰を、好きだって?それだけじゃない。透視(み)たって、何を?「ちょっと待て。紫穂ちゃん……何だって?」急に痛くなってきた頭を抱えながら、恐る恐る紫穂ちゃんに向かって問いかける。すると紫穂ちゃんはぷぅと頬を膨らませて不貞腐れてしまった。「だって仕方ないじゃない。いつまでも進展しなさそうだから」「いや、そういう話じゃなくてさ……」「どうしても確信が欲しくて。だって、負け戦はしたくないじゃない」だから、透視(み)ちゃった、と眉を下げて紫穂ちゃんは俺に告げた。いや、だから、そういう話じゃなくて、だ。「……好き? ……俺が? ……紫穂ちゃん、を?」ますます痛みが強くなってきた米神に手を遣りながら、丁寧に確認するように問いかけると、紫穂ちゃんはきゅっと眉を寄せて俺を下から睨み付けた。「……もしかして……自覚、ないの?」道理でかなり深層まで潜らないと真意が透視(よ)み取れなかったワケね、と紫穂ちゃんは呆れたように続けた。今、彼女は何と言った?俺の深層まで潜ったって、一体いつそんなタイミングがあったんだ?そもそも潜られた記憶すらないのに、どうやって。それともレベルセブンともなれば潜る相手にも悟られず、深層まで辿り着くことが可能だってのか?いや、まさかそんな。ぐるぐると巡る思考に気を取られながら、紫穂ちゃんに目を向ける。じっと俺を見つめ返してくる瞳にぐっと息を呑みながら、何とか深呼吸して気持ちを抑えた。何処からツッコめばいいだろう、とまた痛み出した頭を押さえつつ、まずは俺のプライドに掛けてひとつだけ訂正をしなければならない。「……自覚ないワケねぇだろ。そういう意味で、紫穂ちゃんのこと、ちゃんと好きだよ」前髪をくしゃりと掴んで頭を抱えながら、何とか声を抑えて続ける。「……っていうかさ……本当に俺に潜ったのか? いつ? どこで?」思わず顔を顰めてしまったのは許してほしい。たとえレベルは紫穂ちゃんの方が上だとしても、経験値は俺の方が上であるはずで、そう易々と痕跡を残さず、巧妙に隠しているハズの深層まで潜られちゃ敵わない。そもそも紫穂ちゃんの前でそんなに気を許した態度を取ること自体、有り得ないことで。訝しむ目を紫穂ちゃんに向けると、紫穂ちゃんは目を宙に泳がせながら可愛らしく頬に指先を当てた。「……この前……当直明けで……ここで先生が居眠りしてた時、かな?」テヘッと紫穂ちゃんが空気の悪さを誤魔化すように笑う。どうやら状況はマズいと察知しているらしいことは受け取れて、はぁぁ、と深く溜め息を吐いた。「……やっていいことと、悪いことがあるだろ?」「……ゴメンナサイ」確かに、当直明けのあの日、ここで居眠りしてしまった記憶がある。予定していた当直ではなく、急なシフト変更で連勤になってしまったあの日。どう考えてもオーバーワークな上に夜間の急患も多くてヘトヘトに疲れ切っていた仕事上がり。少しだけ休んでから帰ろう、とソファに倒れ込んだのは間違いない。もしその時を狙われたのだとしたら。確かに気付いてないことも覚えていないことにも頷ける。しかし、だ!流石に警戒心なさ過ぎだろ!いくら紫穂ちゃん相手だからって気を許し過ぎだ!!!っていうか普通、寝てたにしても深層に潜られたら気付くだろ!気付いてくれよ俺のバカ!!!情けなさ過ぎる自分の失態にツッコミながら、紫穂ちゃんに対して警戒心を抱いていない、いや、抱けないと言っていい理由も心当たりが有りすぎてどうしようもない。俺にとって、紫穂ちゃんは多分、初めて、と言ってもいいくらい、自分が気を遣わなくても一緒に居ることに違和感を抱かない存在で。楽しいけれど、時々ちょっと疲れるなと感じていた女性とのお付き合いが、紫穂ちゃんが相手だと何もかもが楽しくて、それこそ恋を知ったばかりのような初々しさがむず痒く、それが何とも心地いい日々、だったはずだ。「勝手に透視(み)るのは、反則だろ……」今まで積み上げてきたものがガラガラと崩れていく感覚に、くしゃりと前髪を掻き毟った。「でも、ほら。結果的には両想いだったんだからいいじゃない!」ね? と紫穂ちゃんは可愛く小首を傾げて、あざとく上目遣いを駆使して俺を見つめてくる。うん、いや可愛いけど。可愛いんだけどさ。可愛いんだけども!「そういうワケには、いかねぇよ……」はぁぁ、ともう一度深く溜め息を吐きながらボソリと溢す。この恋は、秘めた恋だ、と自覚したときから自分の心に誓っていた。ゆっくりゆっくりとあたためて、この気持ちを告げるのは紫穂ちゃんが大人になってからでいい、と思っていた。こちらを向いてくれているという自信も持っていたし、それに浮かれている自覚もあった。でもその代わり、余所者に横からかっ攫われたりしないように、周囲に目を見張って、自分たちの邪魔をする存在を近付けないよう、慎重に慎重に紫穂ちゃんとの距離を詰めてきた。自分でもびっくりするくらい丁寧に深めてきたこの関係。それをまさか、紫穂ちゃん自身に、こんな形で崩されるとは。「……悪いけど……紫穂ちゃんとは、付き合えない」紫穂ちゃんが、弾かれたように目を大きく見開いて俺を見上げている。その表情は、信じられないという驚きを物語っていて、思わず眉を寄せてその大きな目を見つめ返した。「嘘……ど、どうして? 私が勝手に、透視(み)たから!?」ほんの少し青ざめた紫穂ちゃんが、顔を歪めて俺に突っ掛かってくる。「……それはまた別の話だ」「じゃあ、どうして!? お互い好きなんだから、お付き合いしましょうって流れになるんじゃないの?!」わけがわからない、といった様子で詰め寄る紫穂ちゃんの肩に手を置いて、そっと距離を保つ。怒ったように眉を寄せている紫穂ちゃんを、少しでも宥めるためにそろそろと肩を撫でて、ふぅ、と軽く溜め息を吐いた。「……大人はそう簡単に、じゃあお付き合いしましょうか、ってならねぇの」「……私が子どもだ、って言いたいの?」「そうは言ってない」「言ってるわ! 他の女の人とはホイホイ遊んでたじゃない!」キッと下から睨み付けてくる紫穂ちゃんに、痛いトコ突いてくるなぁと冷や汗を垂らしながらも、どう説明すべきか頭を巡らせる。「……遊びとマジなのは違うの。俺にとって、紫穂ちゃんはすっげぇ大切で、そう簡単にお付き合いしましょうかって言えない存在なんだ。わかるか?」自分なりに噛み砕きながら、少しでも想いが伝わるように、と言葉を選んでいく。紫穂ちゃんは眉間に皺を寄せたまま俺の話に耳を傾けていた。「今はまだ、お互い好きってだけでいいんじゃねぇか? 俺たちの間に、お付き合いとかそういうのはまだ早いって思ってる。だから君とは付き合えない」諭すようにゆっくりと語りかけながら、身体を屈めて紫穂ちゃんの顔を真正面から見つめる。紫穂ちゃんは未だ眉を寄せたまま、ふるりと肩を震わせて更に鋭く俺を睨み付けた。「……わからない……わかるわけないわよ! そんなの、そんなの先生の自分勝手な気持ちの押し付けじゃない!」「自分勝手って……そうじゃなくて、俺は紫穂ちゃんを守る立場としてだな……」「それが子ども扱いだって言ってるの!」パシン、と肩に置いた手を払った紫穂ちゃんは、鋭い視線のままくるりと俺に背を向けた。「……もういいよ……バイバイ、センセ」紫穂ちゃんは背中越しに震えるような声で呟いて、勢いよく研究室を飛び出していく。「っ! おい! 紫穂ちゃんッ!」泣いてるのかと思わせる声に一瞬呆然と固まってしまったけれど、すぐに意識を取り戻してばたばたと閉まりかけたドアをこじ開け廊下に飛び出した。紫穂ちゃんはどっちへ行った?早く追い掛けてちゃんと話をしないと、いろいろと拗れてしまう。広い廊下の左右を見渡しても、紫穂ちゃんの姿が見付けられない。「クソッ……透視して探すしかねぇか……」緊急事態だ仕方ない、と自分に言い聞かせて、リミッターの解除をするために壁に手をつき、一呼吸吐く。「賢木修二、かいき」「あっれー? 賢木クン、どうしたの? こんなところで」「……管理官」「何か探し物? 手伝ってあげよっか?」にこにこと笑いながら近付いてくる管理官に向かって、曖昧な笑顔を浮かべる。確かに探し物なのは間違いないけれど、管理官に手伝ってもらうのは何か違う気がする。というより、話が余計にややこしくなるのでどうにか避けたい。ていうか! 何でいつもこんな絶妙なタイミングで現れるんだ!!!「いや、大丈夫。ちょっと込み入った話なんで……」「あー! もしかして、紫穂ちゃんでしょ?」ビシッ、と俺の鼻に人差し指を差して、管理官はバチコーンと気持ち良くウインクした。いや、そうだけど。そうなんだけど。当たりなんだけど、何でバレてんだ?「紫穂ちゃんと上手くいった?」「……は? 上手くいった……とは?」「ちゃんと交際に発展した?」キャッ、と口許に手を遣りながらきゃーきゃーとまるで少女のように飛び跳ねて管理官は感情を表現している。その様子に、まさか、と思いながらも、浮かんできた不安を管理官に直接問いかけた。「……もしかして、紫穂ちゃんを焚き付けたりしたんですか?」「そうよ! 私のアドバイス、上手くいったかしら?」キラキラとした笑顔で答えた管理官に、いや、全然上手くいってねぇよ、と心の中でツッコミながら、力なく壁に項垂れる。力の抜けた身体を支える気力もなく、ズルズルとそのまま壁に背を付けてしゃがみ込んだ。「……アレ? 何か……上手くいってない感じ?」少し顔を引き攣らせて管理官は俺の様子を窺っている。何とも言えないその笑顔に、はぁ、と大きく溜め息を吐いた。「……上手く、っていうのが『交際』って意味なら、全然上手くいってないですね」「え!? 賢木クン、紫穂ちゃんのこと好きなんでしょ? 何で上手くいってないの?!」「……まず、何でそれを知ってるのか聞いてもいいですか」「え? いやー、紫穂ちゃんがこの前さ……」首を傾げて頬に手を当てた管理官が、困ったように眉を下げて喋り始める。それをじっくりと聞いてみると、どうやら、思い詰めた表情で歩いていた紫穂ちゃんをたまたま見かけた管理官が、どうしたんだと声を掛けたのが始まりらしい。あまりに暗い表情をしていたものだから悩みでもあるのかと聞いてみれば、相談がある、と紫穂ちゃんが意を決したように口を開いたそうで。紫穂ちゃんはずっと俺に片想いをしていて、紫穂ちゃん的には俺も紫穂ちゃんに気があるように感じる。それでも確信めいた何かがあったわけじゃないし、そもそも自分をそういう対象として見てくれているのかもわからない。確信できる何かが欲しくて、つい欲に負けて俺をこっそり透視してしまった。そこでやはり俺も紫穂ちゃんのことを好きだという確信を得ることはできた。でも、所謂両想いなのに、自分たちの関係が全く進展しないのは何故だろう?涙を浮かべた紫穂ちゃんは、不安に揺れる恋心を管理官に吐露した。やはり自分は恋愛対象ではないということだろうか。自分が触れた俺の深層は、間違いだったのだろうか。レベルは間違いなく自分の方が上だけれど、経験では俺に負けている。自分は、俺の深層を自分の都合の良いように解釈して、透視(よ)み取ってしまっただけじゃないだろうか。わからない。わからない。切々と涙ながらに訴える紫穂ちゃんに心打たれた管理官は、告白してしまえばいい、ちょうどバレンタインもあるのだから、と紫穂ちゃんに向けてアドバイスを授けた。っていうか女の子泣かすとか最低じゃない? しかも紫穂ちゃんよ? アナタが普段遊んでる女の子相手じゃないのよ? ちょっと聞いてる!? と段々小言になっていく管理官の話を聞きながら、その結果がこれだったのか……と再び深い溜め息を吐いた。「……彼女は、紫穂ちゃんはまだ中学生なんですよ。普通に考えて大人の俺がホイホイ付き合いましょうってなるワケないじゃないですか」「えー? 紫穂ちゃんはもう充分大人でしょう」「そうだけど、そうじゃなくて……もうちょっと、せめて十八になるまではって俺は考えてて……」「ハァ? 甘いわよ賢木クンッ!!!」クワッと見開かれた目と釣り上がった眉。オマケに廊下に響き渡る声にビクリと肩を震わせた。ひょえ、と情けない声が漏れそうなのを何とか堪えながら、仁王立ちで俺を見下ろしている管理官の視線を受け止めた。美人が怒ると迫力があるので、本当にやめてほしい。「女の子なんて中学卒業したらあっという間に大人よ!」「いや、ま、それはそうなんですけど……それとこれとは別っていうか……」「あまいあまいあまーいッ!!!」なんでこう皆本クンといい、賢木クンといい、バベルの男は意気地無しばっかりなのかしら! と腕を組ながら管理官が溜め息を吐いている。いや、人の恋路を勝手に邪魔されて、溜め息吐きたいのはこっちの方だ。俺だって呑気に指咥えて紫穂ちゃんが十八になるまで大人しく待とうなんて思ってたわけじゃない。虫除けはしっかりするつもりだったし、紫穂ちゃんが他所に気を取られたりしないように頑張るつもりだったし。とにかく俺なりにいろいろ考えて行動していく計画はあったのだ。「……フン。まぁいいわ。ちょっとこっちいらっしゃい」何も言い返せないでいる俺に呆れたのか、管理官はひらひらと手を振ってから俺の腕を掴んだ。そのままグイと腕を引かれて無理矢理立たされたと思ったら、ずるずると俺を引き摺って何処かへ向かって歩き出してしまう。「え? いや、あの、管理官! 俺、紫穂ちゃん追い掛けないと……」「今行っても逆効果です! 先に外堀埋めましょ!」「は? 外堀?」ズンズンと目的地に向かって歩いていく管理官に抵抗することも許されず、大人しく引き摺られて辿り着いた先は何故か局長室だった。管理官は、入るわよー、という軽い挨拶で扉を開けると、まるで俺が逃げないようにとでも言うように局長室の中に俺を放り込んだ。「ん? 賢木クン? 何か用かね」「えぇ。ちょっと桐壺クンに話があるんだって」ニコニコ笑って話を切り出した管理官をぎょっと振り返る。俺は別に局長に話なんてないぞ、と思いながらも、逆らえない雰囲気を纏ったまま俺の隣に並んだ管理官相手に立ち尽くすしかなかった。「ん? 何かね? 何でも言ってくれて構わんよ」こちらもニコニコと笑っている局長に、指先で頬を掻きながら目を泳がせる。「いや……俺は、別に、その……」「桐壺クン、バベルって社内恋愛オッケーよね?」「へ? え、ええ。まぁ、社内恋愛に制限はないです」って、オイオイ! 一体何を言い出すんだこの人は!突然、社内恋愛なんてセンシティブな話題を持ち出した管理官に冷や汗を垂らしながら睨み付ける。管理官は俺の様子なんて全く意にも介さずに、ニコリと笑って首を傾げた。「賢木クン、遂に年貢の納め時だって!」「はぁッ?」「おーおー! そうなのか! それはおめでとう! 一体お相手は誰なんだね」そーかそーか、もうそんな年頃なんだねぇ、と局長は管理官の話に勝手に感慨に耽っていて、どうもマズい方向に話が進んでいるという状況に唇を噛む。勝手に話を進めるな! と隣の管理官に視線を投げると、管理官は俺のことなんて何処吹く風というように、口笛なんか吹いてそっぽを向いていた。(ちょっと! 管理官! コレッ!? どういうことですかッ!)(えー? だからー、外堀埋めちゃえば? って言ってるの)(外堀の意味が俺にはサッパリわからないんですけど?!)(だーかーらー! 周りに認めさせちゃえば、年齢なんて関係なくなっちゃうでしょ?)ね? と気持ち良いくらいバチコーンっと管理官が俺に向かってウインクを投げ付けた。局長に悟られないようにサイコメトリーを駆使した会話を管理官と交わして、がっくりと肩を落とす。外堀を埋めるも何も、そもそも納める年貢もなければ、大事に大事に育ててきた紫穂ちゃんとの繋がりは今にも消えてしまいそうなのに。しかもそんな状況を招いたのはアンタの要らんアドバイスのせいじゃないか。このままじゃきっと、俺が築き上げてきた紫穂ちゃんとの絆はなかったことになってしまう。(……俺、紫穂ちゃんにフラれるかもしれないですよ)(ナイナイ。賢木クンがキチンと誠意を見せれば、紫穂ちゃんもイチコロよ!)(紫穂ちゃんから見たらオッサンの俺に、そこまで入れ込んでくれてるとは思えませんね……)(わかってないなぁ……大人の男って、女子の大好物よ?)珍しく弱気になっている俺を励ますように、管理官が俺の背中を叩いた。何を根拠にそんなことを言ってるんだ、この人は。あんな風に飛び出していった紫穂ちゃんが、まだ俺との繋がりを大事にしたいと思ってくれるかどうかわからない。もっとうまく、俺と紫穂ちゃんを取り巻く状況を説明して、納得させてあげればよかった。俺の言葉が足りなかったせいで、正直、今の状況はフラれたも同然、と言っていい。そんな敗戦状態なのに、先に外堀を埋めていこう、なんて、何考えてんだって話だ。ますます気が重くなって、ふぅ、と溜め息を吐くと、一瞬だけムッと眉を寄せた管理官が、フンと鼻を鳴らしてニコリと微笑んだ。「賢木クンね、紫穂ちゃんとお付き合いしたいんですって」って言っちゃうー!? ソレ言っちゃうー?!白目を剥きそうになりながら管理官を睨み付けると、だって賢木クン、いつまで経っても言わなさそうなんだもん! テヘペロッと管理官は可愛らしくウインクをしてみせた。いや、どう考えても鬼だろ。可愛さで誤魔化したってどっからどう見ても鬼だよアンタ!!!シン、としてしまった空気の重さの根源にそろりと視線を動かすと、さっきまではにこにこ笑顔だった局長の表情が、平穏が消し去ってしまったかのように無表情で固まっている。背中にはどす黒いオーラなんか背負っちゃって、もう閻魔様にしか見えない。わー。俺、超孤立無援!泣きたい気持ちを誤魔化しながら、何とかその場を取り繕うように笑顔を浮かべた。「紫穂クンと、お付き合い……?」「そうなの。さっき紫穂ちゃんから告白されたらしくてね? 迷ってるそうなのよー」桐壺クンも何か言ってやって! と局長を焚き付けている管理官は、鬼どころか地獄の遣いか何かかもしれない。「……迷ってる? 賢木クン。キミ、紫穂クンの申し込みを断ったのかね?」ぎろり、と炎が揺れる目に睨まれて、背筋にひやりと寒気が走る。これは責められているのだろうか。局長が一体どういうつもりで俺に問いかけてきているのかわからない。でも、とにかく、これは何かヤバイ、と本能が訴えてくる。「……こ、断った、というか。今はまだ付き合えない、と答え、ましたね」取り敢えず簡略化した事実のみを伝えて様子を見ると、局長はきらりと目を光らせた。「……ホー? 理由を、聞かせてくれるかね?」静かな局長の問いかけにぶるぶると身体が震えるのを感じながら、恐る恐る口を開く。「いや、その……彼女は、その……まだ、未成年なので……」びくびくと怯えてしまうのはもう致し方ないと思う。この人だって普通人なのに普通人の枠を越えていて、しかもここの権力者だ。オマケにチルドレンを溺愛している。何が飛び出してきたっておかしくない。俺はもう日の目を見ることは敵わないんだろうかと震え上がりながら、局長の返しを待った。すると局長は硬い表情を緩めてニコリと笑いながら、組んだ手をデスクに突いた。「ああ、良かった。嫌いだとか受け付けられないからとか言われたらどうしてくれようかと思っていたところだよ」ミシリ、と局長のデスクが音を立てる。目で見る限りはトンとデスクに置かれただけの手が、みしみしとデスクにヒビを作り上げていく。割れるまではいかないにしても、明らかに高級で手入れの行き届いた艶々の木製デスクの表面に、局長の手元から綺麗なひび割れが伸びていて。やっぱりこの人本当に普通人か? と泣きそうになりながら首と手を思い切り横に振って否定した。「いや、決してそんなことは!」ブンブンと思い切り首が千切れそうになる勢いで首を振り続けていると、局長はうんうんと頷きながら続けた。「そうだよねそうだよねぇ。可愛いチルドレンの申し込みを断るなんて、オカシイよねぇ」にこにこ笑っているはずなのにどこか冷たい雰囲気を纏っている局長に、さっきから冷や汗が止まらない。「……でもねぇ。まだ、男女交際なんて早いと思うんだよねぇ」ピシ、と表情を殺した局長は、口の前で手を組んで、まるでどこかのアニメで見たようなポーズを決めて俺を睨み付けた。ひぃ、と情けない声を上げそうになりながらも何とか堪えて、局長の言う通り、とうんうん頷き返す。「お、俺もそう思って! お付き合いはまだ早いって伝えたんですよー。あは、あははは」ひくつく口角を無理矢理持ち上げながら答えると、パッと表情を明るくした局長もうんうんと深く頷いてみせた。「……だよねぇだよねぇ。お付き合いとか、まだ早いよねぇ」もうすっかりにこにこと態度を和らげている局長に、ほっと息を吐いていると、ツカツカとヒールの音を立てながら管理官が局長のデスクに向かって歩いていく。そしてそのままの勢いで、ダァン! とデスクに平手を喰らわせた。バキィッ、と耳を塞ぎたくなるような音が部屋に響いて、ゴト、と二つに割れたデスクが局長の足元に転がる。ちょうどさっき局長が入れたヒビのところから綺麗に割れたデスクが、見るも無惨な姿で廃材と化してしまった。「二人ともかったーい!」デスクだったモノの前に仁王立ちになりながら、管理官が大声で叫ぶ。「紫穂ちゃんのー、賢木クンが好き! って気持ち、大事にしてあげましょうよ!」管理官は叫びながら、眉を寄せて俺に振り返った。まるで俺が紫穂ちゃんの気持ちを蔑ろにしていると言われたようで、ムッと顔を顰める。別に俺は、紫穂ちゃんが俺を好きだという気持ちを受け止められないと言っているわけじゃない。寧ろ、もっと大事にしたいし、大切にしたい。だからこそ、今はまだ付き合えないと思うし、俺をちゃんと見ていてほしいからその努力もするわけで。お互いに好意を持っていたとしても、今はまだ時じゃない。ただ、それだけなのに。どうしてこうもうまく伝わらないんだろう。力を込めすぎて皺の寄った眉間を解すように指先で押さえる。決して上司に向けていい顔ではないという自覚が、自然と顔を俯けさせた。そんな俺を見て管理官は軽く溜め息を吐いてから、首を傾げて腕を組んで。「……賢木クンも、自分の気持ち、大事にしなよ。死んだら元も子もないんだからね!」今をしっかり生きようよ! と続ける管理官の言葉には、彼女の歩んできた人生の重さがずっしりと乗っていて。説得力が上乗せされた言葉に、う、と言葉が詰まった。「愛の力は偉大なんだから! 愛に年齢なんて関係ないでしょう!」眉を吊り上げて切々と訴えてくる管理官に、思わず頷きそうになる。愛の力は偉大、っていうのは、確かに俺も同意見だ。でもやっぱり、それで全てを解決できるわけじゃないと俺は思う。「ナニびびってんの!?」「は? 別にビビってなんか……」「じゃあいいじゃない! 賢木クンは紫穂ちゃんが好き。紫穂ちゃんは賢木クンが好き。これ以上、一体何の問題があるっていうの?!」「いや、でも、彼女はまだ中学生で……」「もうあと少しで卒業しちゃうじゃない! それってそんなに重要なのかしら!?」目を三角に吊り上げた管理官に迫られて、そう言えば確かに、と思い留まった。年齢を考えるとまだ付き合えない、と思っていたけれど、もうひと月も経てば紫穂ちゃんも高校生。高校生になれば、年上の男と付き合っている女子なんてわんさかいる。それは褒められたことではないとは言え、不純な、所謂、後ろ指を指されてしまうようなお付き合いでなければ、年上との交際だって全部がダメってわけじゃないハズで。そう思い至ってしまえば、自分を思い留まらせていたモノがすごくちっぽけなものに思えた。「……確かに、そうですね。もう、腹、括ってもいいのかも」「それでこそ男よ! 賢木クンっ!」きゃっ、と少女のように顔の横で手のひらを合わせた管理官が喜びを表現する。するとその後ろて顔を青ざめさせた局長が椅子から立ち上がってブンブンと首を振った。「いやいやいやいやいや、ちょっと待ちたまえ! ワシは許さんよッ!? 可愛いチルドレンたちをこんな男に渡したりせんよッ!?」覚悟を決めよう、と決意が固まってきたのに、局長の『こんな男』発言がぐさりと俺の心にナイフを突き立てて抉っていく。確かに、自分で言うのも何だけれど、俺は、男としては今まで散々だったから、自信を持ってオススメできる存在ではないかもしれない。しかも相手は目に入れても痛くないチルドレンの一人だ。こんな男、と思うのも仕方がない、と思う。綺麗に決まった局長のボディブローに狼狽えていると、呆れた顔をした管理官が局長に向かって首を傾げた。「どうしてよ? 桐壺クン。賢木クンて超優良物件じゃない」心底わからない、といった様子で管理官は局長に問いかけている。すると局長は汗をだらだらと流しながら管理官に反論した。「いやいや! 女遊び激しいってワシは聞いてるよ!? そんな男を紫穂クンになんて……」「一年前くらいから、女性関係はきれいサッパリよ? 特務になってそんな暇も無いし」まるで知った風に告げる管理官にヒヤヒヤしながら、ねぇ、賢木クン? と同意を求められて、ええ、まぁ、と頷く。紫穂ちゃんに向き合えるように、と女遊びをキッパリやめてその辺を洗いざらい清算していた一年前の自分を褒めたい。「医者だし。紫穂ちゃんと同じサイコメトラーだし。高レベルだし。仲間思いで仕事は真面目。過去の女性関係は確かにちょっとまぁアレだけど、あれも実は誠実に見られる自分が恥ずかしいからっていう可愛い理由が隠れてたんだし。これ以上の優良株がいるなら、逆に私が聞きたいわ」「ぐ、ぐぅぅ……でも、でもですね、管理官ッ」「ねぇ、それって娘の結婚に反対する父親状態よ? 桐壺クン」呆れたように肩を竦めた管理官が、局長に向かって苦笑いを浮かべる。管理官の話はどこかに穴があれば埋まって消えてしまいたくなるような面はゆい指摘がたくさん盛り込まれていたような気がするが、今はもうそんな些事に囚われている場合ではない。覚悟を決めて、ぐぬ、と唇を噛み締めている局長に追い打ちを掛けるように頭を下げた。「紫穂ちゃんとの交際を認めてください。局長」管理官の『外堀を埋めろ』作戦は、今思えば正しかったかもしれない。正々堂々と周囲に認めてもらった上で交際できるのであれば、年齢差なんて関係ない。皆の公認があれば、今までみたいに回りくどいやり方で紫穂ちゃんを守らなくても、堂々と俺のモンだと言えるし、紫穂ちゃんの為に身体を張ってやることだってできるし、彼女が辛いとき、一番に側に寄り添うこともできる。「もちろん! 私がオーケーするわ!」「いやしかし管理官ッ!」満面の笑みで答えた管理官に、まだ局長は納得できないと縋っている。それをジト目で見つめた管理官は、深々と溜め息を吐いて口を開いた。「見苦しいわよ桐壺クン! 紫穂ちゃんの幸せは! 賢木クンと共にあるのよ!」「ぐぅぅ! ……み、認めるよ、賢木クン……」「あ、ありがとうございます!」管理官の圧倒的な後押しもあって何とかバベルトップの公認を得られた俺は、しっかり九十度腰を折り曲げて頭を下げた。そうとなれば、早く彼女の元へ駆けていって、残りの外堀を埋めつつ、改めてもう一度、本当の俺の答えを届けたい。「あのー……紫穂ちゃんに交際のことを誤解させたままなので、今すぐ弁解に行きたいのですが……」「早くいってらっしゃい! 賢木クン!」お幸せにね、と手を振ってくれる管理官と、椅子にぐったりと項垂れている局長に見送られつつ、慌ただしく局長室を飛び出した。紫穂ちゃんの居場所を探ろうかとサイコメトリーを発動させることも考えたけれど、今の彼女の状態を考えると、恐らく、あそこに居るはずだ。目的の場所への最短距離を頭に浮かべながら廊下を駆けていく。あっという間に辿り着いたそこで、乱れた呼吸を整えながら、普段は鳴らさないインターホンを鳴らした。「……紫穂を泣かす悪いヤツはこの部屋には入れません!」薫ちゃんの低く唸るような声がインターホン越しに聞こえてくる。やっぱり、と思うくらいに怒っているのが声だけでわかって苦笑いを浮かべた。「その紫穂ちゃんの涙を止めに来たんだ。開けてくれ」「泣かした先生に止められるとは思えないんだけど?」「俺なら止められる。だから、紫穂ちゃんに会わせてくれ」折角、ひとつ目の外堀を埋めてきたんだ。このまま二つ目の外堀も埋めてやる。俺の真剣さが伝わったのか、インターホンの前で考え込む薫ちゃんの様子が窺える。「頼む、薫ちゃん。紫穂ちゃんに会わせてくれないか」真摯な声で訴えて、ダメ押しのように繰り返すと、固く閉じられていた扉が開いて中から薫ちゃんが顔を覗かせた。ゆっくりと部屋の中から歩み出た薫ちゃんは、眉を吊り上げて素直に俺を疑っていますと言いたげな表情で俺を見上げている。「……紫穂をフッた先生に、今更何ができるの?」「ちょっと待ってくれ。まずは訂正。振ってない。誤解だ」「……え? ……ええーッ!?」薫ちゃんの驚き様に、やっぱりちゃんと伝わってなかったか、と頭を抱えた。その紫穂ちゃんから薫ちゃんと葵ちゃんに話がマトモに伝わるはずもなく。二つ目の外堀は絶賛誤解中、というわけだ。「俺は『今はまだ付き合えない』って言ったんだ。付き合えないと言ったわけじゃない。だから決して、紫穂ちゃんのコトを振ったわけじゃねぇんだ」「……え? ええ!? フッてないってことも驚きだけど、今はまだ付き合えないっていうのも意味ワカンナイ!」眉尻を上げて眉を思い切り寄せている薫ちゃんに詰め寄られて一歩後退ったけれど、ここで負けちゃいられない、と踏ん張って薫ちゃんに向き直った。「……や、だからね。俺はこう見えて一応成人した大人なんで、中学生の女の子に手を出したらいろいろ問題なワケ。わかる?」「そーなの? じゃあ、皆本は……」「今はアイツのコトは考えない。今は俺と紫穂ちゃんの話。オーケー?」真面目に話し始めた俺に対して、薫ちゃんはコクコクと素直に頷いている。この様子だと薫ちゃんは何とか話を聞いてくれそうだ。問題は葵ちゃん、だろうな。「……取り敢えず、紫穂ちゃんの誤解を解きたい。ついでに君たちにも話を聞いてほしい。だから、紫穂ちゃんに会わせてくれないか」「……うん、わかった。入って」眉を寄せつつもこくりと頷いた薫ちゃんに続いてチルドレンの待機室に入る。すると、葵ちゃんに凭れてソファで項垂れている紫穂の姿が目に入った。「薫、何で入れたんや! 話とちゃうやん!」「や、あのね! それが実は……」「……ちゃんと俺が話すよ。まず、その……いろいろと誤解なんだ」恐らく、薫ちゃんは俺を追い返すことになっていたのだろう。葵ちゃんは俺が部屋に入ってきたことを、カンカンになって怒っている。目を吊り上げて俺を睨み付けている彼女を宥めるように、言葉を続けた。「まず訂正させてくれ。俺は決して紫穂ちゃんを振ってない」「……へ!?」目をまん丸にして驚いている葵ちゃんに、やっぱりなぁ、と苦笑いを溢した。さて、どう話せばうまく話が通じるだろうと思考を巡らせていると、ゆらりと身体を起こした紫穂がキッと俺を睨んだ。「……嘘よ……付き合えない、って言ったじゃない」「……俺は『今は』まだ付き合えないって言ったんだ」「そんなの……付き合えないって言ってるのと同じよ!」「だから、そうは言ってないだろ」「今付き合えないなら、いつ付き合えるって言うの?! そんなの誤魔化しでしかないわ!!!」ワッと顔を覆って再び泣き出した紫穂の肩を、葵ちゃんが痛ましい表情を浮かべて撫でている。俺たちの遣り取りをじっと見守っていた薫ちゃんまでが、悲しそうに眉を顰めてそっと紫穂に寄り添った。身を寄せ合って悲痛な想いを分け合っている三人にそっと近付いて、静かな声で告げる。「……だからさ、今から君と正々堂々付き合えるように、俺と一緒に、外堀を埋めてくれ」紫穂ちゃんの前に膝を突いて、閉じた扉をノックするように、紫穂ちゃんの膝に手のひらを置いた。「ここからは二人じゃないと駄目なんだ」静かに、でもちゃんと紫穂ちゃんに届くよう真摯な声で訴える。俺の声にピクリと身体を震わせた紫穂ちゃんを真っ直ぐに見つめた。恐る恐る顔を上げた紫穂ちゃんに、懇願するように眉を寄せると、俺たちの様子を見守っていた葵ちゃんがそろりと口を開いた。「ここから、って……どういうことなん? 賢木センセ」紫穂ちゃんの肩を擦りながら、葵ちゃんが意味がわからないといった様子で俺に聞いてくる。「ここからっていうのはさ……俺たちがちゃんとお付き合いするためには、ここからは俺一人の力じゃダメ、ってことなんだけど」「ここからってことは、ここまでは賢木センセ、一人でなんやしとったん?」不思議そうな表情を浮かべて俺を見てくる葵ちゃんに、眉を下げて笑みを溢す。「……管理官と局長に紫穂ちゃんとの交際許可、貰ってきた」紫穂ちゃんがハッと目を見開いて俺を見つめる。きらきらと零れてしまいそうなくらい大きな目がしっかりと俺を映していて、目尻に浮かんだ涙をそっと親指で拭った。抵抗されないことにほっとして、紫穂ちゃんの手を包み込むように掴んでから口を開いた。「改めて言う。俺と、付き合ってくれる? 紫穂ちゃん」ヒュッと息を飲んで紫穂ちゃんは俺を凝視している。何も答えられずに固まっている紫穂ちゃんに眉を下げて微笑んだ。他の二人も紫穂ちゃんの横で、顔を赤くして俺を見ている。「……薫ちゃん、葵ちゃん。二人にも、俺たちの交際を認めてほしい」それぞれの目をしっかり見据えながら言葉にすると、三人とも耳まで真っ赤にして硬直してしまった。そこまで刺激が強かったとは思えないが、やっぱりこういうことはまだ不慣れで、幼い部分があるのかもしれない。それを口に出して言うことは絶対にないけれど、徐々に慣れてもらうしかないか、と笑って肩を竦めた。惚けてしまっている紫穂ちゃんの意識を呼び起こすように、そっと強請るように囁く。「……返事、くれる? 紫穂ちゃん」じ、と下から紫穂ちゃんの目を見つめると、ぷい、と照れたように紫穂ちゃんはそっぽを向いて。「……返事もなにも……付き合って、って言ったのは私の方よ、センセ」「……そうだったな」不満そうにしているけれど、これはきっと照れ隠しなんだろうな、と思いながら紫穂の頭をくしゃりと撫でて、そのまま頬にするりと手を滑らせる。キスしたいと思うくらい愛らしい顔をしているけれど、今はまだ、そういうことをするには早い。「……じゃあ、葵ちゃん、薫ちゃん。二人の意見は?」正々堂々と交際を始めるには、きちんと公認を勝ち取らなければならない。それにはまず、この二人の公認を得ることが必要だった。「う、ウチが反対するわけないやん! ずっとお似合いや思てたし!」「わっ、わたしもッ!」「ありがとう、二人とも」二人とも、顔を赤らめたまま、口をパクパクさせて慌ただしく答えてくれる。これで二つ目の外堀は埋まった。最難関は最後に置いておくとして、次の外堀に向けて、紫穂ちゃんに動いてもらわなければならない。「……じゃあさ、次は紫穂ちゃんのご両親にご挨拶がしたいんだけど」「え? いきなり?」眉を顰めた紫穂ちゃんを納得させるように、しっかりと目を見つめて答えた。「君はまだ未成年なんだ。君のご両親からオーケー貰わないと、いくら周りに公認してもらったって、正々堂々ちゃんとお付き合いできないぜ?」「……確かにそうね」わかったわ、と紫穂ちゃんが私用の端末を取り出して操作する。表示された電話番号を見据えてから、紫穂ちゃんは、ふぅ、と軽く息を吐いて通話を始めた。「……もしもし、ママ?」「あら。滅多に連絡してこないのに、どうしたの? 紫穂」スピーカー越しに聞こえてくる通話の内容にごくりと喉を鳴らすと、紫穂ちゃんは俺が掴んだままだった手にきゅっと力を込めた。「あのね、ママ。実は……紹介したい人が、いるの」思い詰めたような細い声で告げながら、紫穂ちゃんは照れたように少しだけ目を伏せた。「……だからね、パパとママの予定を知りたくて」「あらあらあらあらあら、まだ中学生なのに気が早いこと。ちょっと待っててね……」「うん……」「今週の土曜日なら大丈夫よ」「じゃあ、今週の土曜日。その人を連れて、家に帰るから」「ええ、期待せずに待ってるわ。じゃあね、紫穂。身体に気を付けて」「うん、ママもね。パパにもよろしく」ピッ、と静かに通話が終了した。よほど緊張したのか、紫穂ちゃんは胸に手を置いて、はぁー、と深く息を吐いている。「……今週の土曜日……予定、大丈夫?」「意地でも空けるよ」恐る恐る聞いてきた紫穂ちゃんに笑顔で答える。土曜日まであと3日。準備を整えるには充分な期間。「じゃあ、土曜日。待ち合わせな」「うん。詳しい時間とか、また知らせて」「ああ。じゃあ今日は退散するよ」泣かせてゴメンな、ともう一度紫穂ちゃんの頭を撫でた。紫穂ちゃんは照れ臭そうにそれを受け入れている。「な、なんや。もう、すっかり二人の世界が出来上がってるんやなぁ……」俺たちの様子を見て、ぼそりと呟く葵ちゃんに、紫穂ちゃんは顔を真っ赤にして俯いた。「これで付き合ってのおて、今はまだ付き合えへんとか、ホンマ、詭弁にしか聞こえへんわ」葵ちゃんの鋭いツッコミに、俺は苦笑いしかできない。「まぁ、大人にはいろいろ事情があるんだよ」スッと立ち上がりながら、葵ちゃんに向かって告げる。薫ちゃんはさっきから顔が赤いまま、何処かの世界へ行ったきりだ。恐らく、皆本のことでも考えているんだろう。この二人もこれからどうなるのやら、と思いつつ、そっと手を離して紫穂ちゃんに視線を戻す。「じゃあな、紫穂ちゃん。また土曜日に」「バイバイ。センセ」名残を惜しむかのように、お互いに手を振り合う。恋人らしい振る舞いは、正々堂々交際できるようになってからでいい。ご両親へのご挨拶に向けて、使える時間は三日間。準備の段取りで頭をフル回転させながら、早足で歩き出した。

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