「ご馳走様でした」二人で手を合わせて、ひとつも残ることなく綺麗に平らげたお皿に向かって深々と頭を下げる。とても満足そうな賢木さんの表情が嬉しい。自分の作ったものをこんなにも喜んでもらえるなんて、しかも、それが好きな人相手だったらもっともっと嬉しいなんて、少し前の僕なら知らなかった。「食後のお茶でも入れましょうか?」言いながら席を立ってキッチンへと向かう。すると慌てたように賢木さんも立ち上がって僕の後ろをついてきた。「俺もなんか手伝うよ」「大丈夫ですよ。賢木さんはお客様なんだから」「そんなこと言ったって、俺ら友だちだろ? こんなにしてもらってるのに一方的じゃあ釣り合わねぇよ」な、と念押ししてくる賢木さんの言葉が心の棘になってチクリと引っ掛かる。僕の気持ちを知っていて、その上で友人であろうとしているように思えて、何だか胸が苦しくなった。「……そうですね。じゃあ、僕はお茶の準備をするので、テーブルの食器をシンクに運んでもらえますか?」「オッケー。任せろ!」ビシッと親指を立てて賢木さんはダイニングへ戻っていく。その間に手早くお湯を沸かしてお茶の準備を済ませてしまった。賢木さんが少しずつシンクに食器を運んでいる間に、ティーポットにお茶を蒸らしてカップと一緒にダイニングへと運ぶ。「賢木さん、お茶の準備できましたよ」「おう! 食器は水に浸けといたぜ。お茶飲んだら洗うから」「そんな……そこまでしてもらうの申し訳ないですよ」「唐揚げのお礼だって。そんなに気にするなら一緒に片付けようぜ」賢木さんは本当に何でもないように笑ってさっきまで座っていた椅子に座り直した。あんな狭いキッチンに二人きりになるなんて、とドキドキしながらお茶をカップへ注いでいく。「でも、うちのキッチン狭いですから」男二人で片付けなんて、と続けようとすると首を傾げた賢木さんが口を開いた。「単身者用のアパートなんてどこもこんなもんだろ? ていうか、俺が皆本にお返ししたいんだよ。片付けくらい手伝わせてくれ」いいだろ、と賢木さんが僕に向かって笑う。僕はその誘惑に勝てなくて、こっそり溜め息を吐きながら淹れたてのお茶を差し出した。「……わかりました。じゃあ一緒に片付けましょう」「任せろ! ピッカピカにしてやるよ!」ニッと子どもっぽく笑う賢木さんに、クスリと微笑みかける。賢木さんには勝てないなぁ、と心の中で呟きながらちょうどいい温度になったお茶を口に含んだ。「……アレ? これ、緑茶? しかも結構良い茶葉?」同じようにお茶を飲んでいた賢木さんが、カップから口を離して言った。「あ、これ中国茶葉の専門店で買った茶葉だから、日本の緑茶とはちょっと違うかもしれません」「……確かに。これ中国茶の系統だな?」「ええ。確か台湾茶って言ってたかな」キュン、と力を発動させてお茶を透視している賢木さんに、答え合わせをするように声を掛ける。「中国茶葉の専門店って……この辺にあったっけ?」「この前の中華街に、老夫婦が営む茶葉屋さんがあるんですよ。そこで買った茶葉なんです」「えっ? そんな店あったっけ?」「あー……表通りから離れたところにあるし、隠れた専門店が集まっているところだから、用がないと行かない界隈かも」落ち着く香りのお茶に癒やされながら、静かに呟くと、両手でカップを包み込んで深く味わうようにお茶を飲んでいた賢木さんが、首を傾げて僕の方へと視線を移した。「お前よく知ってるな。たまたま見つけたのか?」「僕はこっちに来てそれなりに長いですから。日本の調味料とか食材を探しに、よく行くんですよ」あの中華街、と続けると、驚いたように目を大きく見開いて、賢木さんが口を開いた。「え……お前も大学留学じゃねぇのか?」賢木さんの目が僕のことをまっすぐ見つめている。そうか、話したことなかったっけ、と苦笑いしながら、どこから話そうか、と思考を巡らせる。「あの……えっ、と……実は僕、特別教育プログラムを受けていて、飛び級でこちらに来てるんです。日本の義務教育も、途中から受けていなくて……」俯き加減になりながら、端的に事実を説明する。賢木さんがどんな表情をしているかを見るのが怖くて、どうしても視線をそちらに向けることができない。随分減ってしまったカップの中身を見つめながら、口をつぐんだ。「……えーっと、所謂、天才児、ってやつ?」こちらに来てからは殆ど聞かなくなっていたその呼称に、眉を寄せて力なく笑った。「ええ、まぁ……自分でそんな風に思ったことはないんですけど」はは、と笑って誤魔化しながら、きゅっとカップを掴む指先に力を込めた。賢木さんの目に、僕はどんな風に写っているだろう?賢木さんとは別のところで、『普通』に混じることができなくて溢(あぶ)れてしまった僕を、賢木さんはどんな目で見るだろう。それを確認するのが怖くて、僕は顔をしっかりと上げていることができなかった。ぎ、と椅子の音がして、賢木さんが身動ぎしたのが伝わってくる。ふと近付いた気配にびくりと肩を震わせると、賢木さんの手が僕の頭に触れた。「そっか……ゴメンな。辛いこと聞いちまったな」ポンポン、と優しく僕の頭を撫でる賢木さんの大きな手。その優しさにハッとして顔を上げると、穏やかに微笑む賢木さんと目が合った。「知らなかったとはいえ、言いづらいことを話してくれて、アリガトな」「……賢木、さん」「お前も、苦労してたんだな。道理で年下のくせに、妙に落ち着いてるワケだよ」ふわりと笑った賢木さんの表情は本当に優しくて。何故か急に泣きたくなった。ぎゅっと眉を寄せて堪えようとしても、じわじわと熱くなる目頭を止めることはできなくて。慌てて眼鏡を外して目元を覆った。「すみません……もう、どうってことないと思ってたんですけど」何でだろおかしいな、と呟きながら、ぽろりと溢れる涙を拭っていると、カタリと急に立ち上がった賢木さんが僕の隣まで来てそっと頭を抱き寄せた。「さっ、賢木さん!」「いーから。今だけ貸してやる」トントンと優しいリズムで僕の肩を叩いた賢木さんは、ぎゅっと僕の頭を守るように抱き寄せた。触れたところから伝わってくる賢木さんのあたたかい熱だとか、鼻を擽る賢木さんのにおいだとか、いろいろ全部が優しくて。僕はそろそろと賢木さんの背中に腕を回して、縋るように抱きついた。ぎゅっと力を込めて賢木さんに顔を埋めると、慰めるように僕の頭を撫でながら、賢木さんも同じように抱き返してくれる。それが純粋に嬉しくて、それから、どこか諦めていた自分の中の孤独が癒やされていくような気がして、ぽろぽろと零れる涙をなかなか止めることができなかった。「あの……すみませんでした。みっともないところをお見せしてしまって」涙がようやく止まり、気持ちが落ち着いてくると、自分のとっている体勢を冷静に客観視できてしまって。顔に熱が集中してくるのを感じながら、もたもたと賢木さんから顔を離す。すると、賢木さんはとても優しい目で僕のことを見つめてから、穏やかに笑って僕の頭を指先で撫でた。「いいよ。落ち着いたか?」「……はい」賢木さんの低くて甘い声が耳に響いて、ドキドキと心臓が早鐘を打ち始める。いくら賢木さんが許してくれたからって、ただの友人として済ませるには甘えすぎだ。慌てて賢木さんから離れようとすると、賢木さんはクスリと笑ってもう一度ぎゅっと僕を抱き寄せた。「さっ、賢木さん!」「……落ち着いたなら、よかった」そう言って、そっと僕から身体を離した賢木さんは、やっぱり優しい顔で笑っていて。「片付け、しちまおうぜ」ぽん、と僕の頭に手を乗せて、賢木さんはティーポットとカップを持ってキッチンへと向かった。「はい!」慌てて自分の分のカップを持って後を追いかけると、賢木さんはもう何事もなかったかのように気分を切り替えて腕捲りをしていた。「全部洗っちまって良いよな?」先ほどまでの、僕を優しく包み込んでくれるような柔らかさを持っていた賢木さんはもうそこにはいない。それが、急に現実に引き戻されてしまったような感じがして、少し寂しくなった。でも、きっと切り替えた賢木さんの方が正しくて、穏やかなあの空気に引き摺られている方がおかしい。いつまでもその雰囲気に包まれていたかったと感じているのは僕の気持ちの所為だと、無理矢理自分に言い聞かせて気分を切り替える。「……お願いしてもいいですか? 食器は全部そこのスポンジと洗剤で洗っちゃってください」「任せろ」じゃあ僕はコンロを片付けてしまいますね、とシンクに向かっている賢木さんに背を向けた。狭いキッチンで、黙々と片付け作業を進めていく。かちゃかちゃと食器がぶつかり合う音と、油が飛んだコンロを磨く音だけが響いていた。きっともう賢木さんは、さっきのことなんて何も気にしてはいないと思う。なのに僕は未だに上手く気持ちを切り替えることができなくて。ふとすると息遣いまで聞こえてきそうな距離感。緊張やその他いろいろなものでドキドキと煩い心臓を、僕は片付けに集中することで何とか鎮めていた。いつも以上にピカピカに磨いてしまったコンロを見つめて溜め息を吐く。揚げ油の後始末も終わってしまった。ゴミも片付けてしまえば、残りは揚げ物に使った鍋を賢木さんが使っているシンクに運んで洗うだけ。でも何となくそわそわと落ち着かないせいで賢木さんに近付くことができず、僕は鍋とにらめっこを続けていた。「なぁ皆本」「はっ、ハイっ!」急に声を掛けられて、鍋を落としそうになりながら何とか返事をする。声が裏返ってしまったけれど不審に思われていないだろうか、とビクビクしながら賢木さんへ顔を向けると、賢木さんはクロスで皿を拭きながら、僕の様子を気にも留めていないようだった。その横顔はどこかご機嫌で、少し照れが混じったような笑顔を浮かべていて。「あのさ」「……はい」少しだけ言い澱むような様子を見せた賢木さんは、作業台にお皿を静かに置いてから僕に向き直って恥ずかしそうに笑った。「えっと……あの、さ……その、材料費、払うから。また、何か作ってくれないか?」ぽりぽりと頬を指先で掻きながら、賢木さんは僕の様子を窺うように告げた。「いやー……ホント、びっくりするくらい……皆本の作る飯、旨くてさ。これきりなのかと思うと落ち込むくらい、気に入っちまって……」はは、と力なく眉を寄せて笑う賢木さんは、どうやら本当に落ち込んでいるようで。「でも負担なのはわかるから! ホント、皆本の気が向いた時とかでいいんだ! 迷惑になんない範囲で……」ダメかな? と俯きがちに賢木さんは僕に問いかけてきて。そんな賢木さんに僕は慌てて口を開いた。「そんなっ! 迷惑だなんて有り得ません! 僕、賢木さんに喜んでもらえて嬉しいです!」鍋を置いて賢木さんの腕を掴みながら叫んでいた。目の前に賢木さんの整った顔が広がる。急に近付いた距離にドキリとしてパッと手を離した。「すっ、すみませ」狭いキッチンで身を寄せ合うような形になっていたことに慌てて距離を取ると、お、おう、と賢木さんも少し動揺したように目を泳がせていて。僕は心拍数が跳ね上がった心臓を宥めすかしながら何とか混乱した頭で話を続けた。「そ、そうだ! もし、賢木さんのご迷惑でなかったら! 土曜日! 土曜日はうちで晩ご飯食べませんか!」僕、何でも作ります! と必死になって言葉を続ける。また少し前のめりになってしまった身体を戻しつつ、一呼吸置いて再び口を開いた。「和食でも何でも、僕、賢木さんの為に作りますから。一緒にご飯、食べませんか?」呆気に取られた表情で、目をパチパチとしている賢木さんに、半ばお願いするような形で提案する。黙り込んでしまった賢木さんの様子に、少し必死すぎたかと焦っていると、こちらの様子を窺うような目をした賢木さんが、おどおどとした様子で口を開いた。「……マジでいいの? そんなん言われたら、俺、調子乗っちゃうよ?」「全然いいです! 僕、賢木さんの為なら何だって作りますから!」「……ホントにいいの?」「大丈夫です! 何でも仰ってください!」「じゃ、じゃあ、さ……煮魚、食べたい」「わかりました! 次の土曜日は煮魚にします!」賢木さんが次の土曜日の約束をしてくれたことが嬉しい。たったそれだけのことなのに舞い上がってしまいそうになる。弾んで仕方がない気持ちを素直に表に出すと、賢木さんも嬉しそうに微笑んだ。何だかむず痒いようなくすぐったさを覚えながら、えへへ、と二人で笑い合う。むずむずするのに、何だかそれが心地よくて、ずっとこの雰囲気に包まれていたい。ふわふわと甘い空気に呑まれていたら、ふと、真面目な顔をした賢木さんが僕の目を見つめ返してきた。「でも……ホントにいいのか? 毎週なんて負担じゃないか?」狭い空間に男二人で見つめ合っていたことが恥ずかしくなったのか、賢木さんは気まずそうに鼻を掻きながら顔を逸らした。それに寂しさを覚えつつも、それが当たり前の感覚だよなと自分に言い聞かせて、そっと僕の方から賢木さんと距離を取った。「……そんなことないですよ。食べてくれる人がいるって、嬉しいですから」曖昧に微笑みながら、当たり障りのない返事をして賢木さんから目を逸らす。実際、自炊なんて一人分作るよりも誰か一緒に食べてくれる人がいる方が、作る意欲が湧いてくる。それを言い訳にしてしまえば、賢木さんを誘うためのいい口実になるような気がした。「えー……でもさ、お前にも居るだろ? ガールフレンドの一人や二人」その子たちの相手で週末は忙しいんじゃねぇの? と賢木さんは再び食器をクロスで拭き始める。グサリ、と僕の身体に刺さったその言葉は、じわじわと僕の神経を麻痺させるように痛みが広がっていって。何事もなかったように食器を拭く作業を続けている賢木さんに、少し、腹が立った。「……そんな人……いるわけないじゃないですか」僕の気持ち、知ってるくせに。苦々しい思いを抱えながら、やっとの思いで口を開く。苦しくて、痛い。僕が賢木さんのことを好きだと知っているくせに、そんなことを言うのは、やっぱり僕を突き放したいからなんだろうか。僕が、賢木さんのことを想うこと自体、許されないことなんだろうか。「マジかよ。いくら研究馬鹿の皆本でも、気になる子の一人や二人、いるだろ?」驚いた、という表情で問いかけてくる賢木さんに、それはあなたのことだと素直に言えたら、どんなにいいだろう。「……気になる人なら、いますよ。一人だけ」でも、今の僕にできる精一杯の素直は、これが限界だった。「えっ?! どんな子なんだよ? お兄サンに教えろよー」賢木さんがにやにやしながら僕の脇を肘で突いてくる。狭いキッチンじゃ逃げることも叶わず、大人しくされるがまま、抵抗することができない。「……嫌ですよ。秘密です」「えー? 皆本の好きな子が一体どんな子なのか気になるじゃん」ケチー、と口を尖らせて賢木さんは不貞腐れている。そんな可愛い顔をしたって、今はまだ教えられない。だってまだ、あなたにとって僕は、一人の友人でしかないだろうから。「……好き、だから。内緒にしておきたいんですよ」そっと丁寧に言葉にすると、それは妙にしっくりときて、ごく自然と顔に笑みを浮かべることができた。バレていたって、内緒にして一人で想うことは許されるはず。突き放されるのなら、突き放せない距離にいれば、賢木さんから拒絶することもできないはずだ。「ふーん……もしかして、初恋、とか?」ちら、と僕のことを横目で窺いながら賢木さんは聞いてくる。こんなに近い距離で、お互い触れ合っているんだから、わかるくせに。そんな風に聞いてくる賢木さんが、少し憎くて、でも、嫌いにはなれなかった。「……そうですね。そう、かもしれません」俯きながら、そう言えばここまで誰かに心を乱されることなんてなかったな、と思い返す。これは初恋か、と自分でも驚くような事実に溜め息を吐いた。賢木さんも退いてるだろうな、とチラリと横目で確認すると、驚いたように目を見開いた賢木さんがこちらを見ていて。思った通りの反応に更に溜め息を吐いた。「……仕方ないですよ。同世代の人と関わること自体が少なかったし……どこに居ても、周りは大人ばかりでしたから」自虐的に呟くと、賢木さんはハッとしたように、そっか、ゴメン、と僕から目を逸らしてしまった。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、自分の失言を反省しながら何とか空気を変えようと言葉を探していると、あのさ、と賢木さんが深刻そうな顔をして口を開いた。「……み、皆本って……童貞?」じ、と僕の顔を見つめてくる賢木さんに、一体何を聞かれたんだろうと賢木さんの言葉を反芻する。じわじわと頭が言葉を理解して、カッと頬に熱が走った。「なっ……なッ!」はくはくと口を開けたり閉めたりしながら賢木さんを凝視する。賢木さんは賢木さんで少し気まずそうな、でも照れが混じったような微妙な表情で頭を掻きながら僕から視線を外した。「いやぁ……だってさ。コメリカに来て結構経つんだろ? 皆本みたいに可愛いタイプは、年上のオネーサンにペロッと頂かれちゃって、何もかも経験済みなのかと思ったから」まさか初恋もまだの童貞クンだとは思わなかったんだよ、と少し頬を赤くしながら賢木さんは続けた。賢木さんが勝手に抱いていた僕のイメージとは相反する本来の僕の姿に、何だか悔しくなって顔を顰める。ぎゅっと眉間に力が入ったのを感じながら、ツイ、と顔を背けた。「……どうせ初恋に戸惑って、どうしたらいいかわからない、駄目な童貞ですよ」若干嫌味が混じり過ぎている気はする。それでも、恋をしている張本人に、自分の恋愛遍歴を馬鹿にされている気がして悲しかった。オマケに、別に恥じることでもないはずの初恋と、童貞であることを指摘されて、自分がクサクサとした気分になっているのが手に取るようにわかって。そんな自分を賢木さんに見られるのが嫌で、身体ごと賢木さんから逃れるように背中を向ける。すると賢木さんが慌てたように僕の肩に手を置いて身体の向きを変えさせられた。「そこまで言ってねぇだろ?」賢木さんの真剣な表情が目の前に飛び込んでくる。じっと僕を見つめる目にドキリとして、思わず目を逸らすと、勘違いした賢木さんが、怒るなよ、と寂しそうに呟いた。その声色に誘われて賢木さんに視線を戻すと、不安そうに揺れている目とかち合って。どうしたって僕は賢木さんには勝てないんだな、と悟って表情を緩めた。賢木さんはそんな僕の表情に安心したのか、嬉しそうに笑って、ピンと何かを閃いたようにそうだ! と口を開いた。「よし! じゃあお兄サンが恋の手解きをしてやろう! どんな子だ? 可愛いんだろ?」なぁ教えろよ、と賢木さんが肩を組んでくる。僕の身体に触れる賢木さんの体温に、ドキリと心臓が跳ねた。狭い空間で馬鹿みたいに身を寄せて、まるで内緒話をするように顔を近付けて。こんなの僕にとっては拷問に近いのに、どうしても離れがたい。お兄サンに話してごらん、と耳を寄せてくる賢木さんの誘惑に負けてしまって、ドキドキしながら口を寄せて囁いた。「可愛いです。すごく」そっと、自分の秘めた想いを伝えるように。大切に大切に呟いた。「へぇ……年は? 年下? 年上?」「凄く綺麗な、年上の人です」「そっか。じゃあ頑張んなきゃな」すごく近い距離で、賢木さんが笑う。揶揄うようなその表情に、僕は何だか泣きたくなった。僕が知りたいのは、あなたの攻略法だ。どうしたら、僕のこと、友達じゃなくて恋愛の対象として見てくれますか?僕の気持ち、知っているんでしょう?なのに、どうしてそんなに意地悪するんです?聞きたくても聞けない問いが、くるくると自分の中で渦を巻く。今だって、触れたところから何か透視(よ)み取っているかもしれない。「……僕が誰に恋しているかなんて、賢木さんにはお見通しでしょう?」つい、ぽろりと口から出た言葉。それに賢木さんは目を見開いて、それからきゅっと苦しそうに眉を寄せて、僕から離れて背を向けた。「そんなん……透視(み)るわけねぇじゃん」悲しそうなその声の響きにハッとして。「す、すみません。僕、わかりやすい方だってよく言われるから、てっきり、賢木さんにはバレてるんだと思ってました」慌てて頭を回して違和感のない回答を口にする。そうだ。賢木さんは興味本位で人を透視(の)ぞいたりする人じゃない。たまたま透視(み)えたならまだしも、そういう個人的な情報を、賢木さんが悪戯に透視したりするなんて有り得ない話だった。そんなの、知り合う前からわかっていたことなのに。「本当にすみません……僕、何と謝ればいいか……」失ってしまった信用に手が震える。そういった誤解で苦しんできた賢木さんを、自らの不用意な発言で傷つけてしまった。「……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」自分の気持ちに惑わされて、一番大切なことを見失ってしまっていた。「賢木さんがそんなことしないって、僕が一番わかってるのに」力なく呟いた言葉と共に、じわりと視界が歪んだ。途端に涙がぽろぽろと溢れ出してパタパタと足下にシミを作っていく。ぎゅっと目を瞑って涙を抑えようとしても逆効果のようで、涙は止まらずにぼろぼろと頬を濡らすばかりだった。このまま嫌われて賢木さんに距離を置かれてしまったらどうしよう。傷ついているのは賢木さんなのに、自分のことばかりしか考えられない自分が情けなくて、どんどん涙が溢れてくる。堪えていた嗚咽が口から漏れてしまって、賢木さんが驚いたようにこちらへ振り返った。「……泣くなよ、皆本」痛ましい顔をして僕に近付いてくる賢木さんと目を合わせられなくて、思わず俯く。「ごめ、っなさ」嗚咽混じりに賢木さんに向かって、いろいろな気持ちを全部含めた謝罪の言葉を紡ぐ。すると、ふわ、と賢木さんの気配が近付いて。そろりと背中に手が回って抱き寄せられた。「……大丈夫。お前にそんなつもりがなかったことはよくわかったから」よしよし、とまるで子どもを慰めるように優しく僕の髪を梳く賢木さんの手はあたたかい。僕はその優しさに甘えて、賢木さんの背中にゆるりと手を回した。指に力を込めて縋り付くと、賢木さんの大きな手が僕の背中を擦ってくれて。「なんか、今日は皆本の泣き顔ばっか見てる気がする」クスクスと笑いながら僕を慰めてくれる賢木さんは穏やかにそう言って、ぎゅうと僕を抱き締めた。僕も賢木さんの肩に顔を埋めながらぎゅっと抱き締め返して、くぐもった声で返事をする。「……情けないところばかりお見せして、すみません」「いいって。今日はお兄サンに甘えなさい」賢木さんは僕を抱き締めたまま、熱を分け合うように僕の頭に頬を寄せた。それから、クスリと軽く笑って、僕の背中を優しく叩く。「でもさぁ、こんなに泣き虫だと、お兄サン心配になっちゃうよ」背中に伝わってくるトントンという優しい衝撃に甘えながら、ゆっくりと身体を離す。それからきっと涙でぐしゃぐしゃの情けない顔のまま、賢木さんをじっと見つめた。「だから、言ってるじゃないですか。僕、賢木さんがいないと、ダメなんだって」こんな自分は知らない。嫌われたかもしれないと思うと激しく動揺して、子どもみたいに泣きじゃくる自分なんて。賢木さんが好きというだけで、こんなにも激しく感情に振り回される自分なんて。こんな自分は、知らなかった。「……仕方ねぇなぁ……俺がずっと、側で面倒見てやるよ」ふわり、と花が綻ぶように賢木さんが笑う。僕の一番好きな賢木さんの表情に、ぽろりと涙が零れた。それを賢木さんの親指がそっと拭って。「もう怒ってないから。泣くなよ」賢木さんが少しだけ辛そうに眉を寄せて笑う。僕は賢木さんの笑顔を曇らせたくなくて、無理矢理笑ってみせた。なんて顔してんだよ、と笑う賢木さんの声が優しくて、あぁ、やっぱりこの人が好きだな、と心からそう思った。僕の気持ちに気付いていないとわかったのに、賢木さんが触れている僕の身体全てから、僕の気持ちが伝わってしまえばいいのに、と涙を零した。
そう、これはたとえばの話。



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