「お待たせー、皆本!」向こうから手を振って駆けてくる賢木さんが見えて、凭れていた壁から背を離して小さく手を振り返した。「ワリィ、結構待ったか?」「いえ、僕も今来たところですよ」待ち合わせたのは、キャンパスから少し離れたところにある中華街の入り口。僕らの家からそう遠くない場所で、僕も時折日本の調味料を探しに足を運ぶ場所だった。「行こーぜ! 俺も腹減った! 今日はもうガッツリ食う!」ニカリと無邪気に笑った賢木さんが、僕の肩に腕を回してガシリと僕を抱き寄せて。途端に近付いた距離にドキリと胸が弾む。ふわりと漂ってきた賢木さんのにおいと体温に、ぎゅっと胸が苦しくなった。それでも僕は何とか笑いながら、賢木さんの笑顔を盗み見る。整った造形の男らしい顔が、まるで少年みたいに明るく笑うから。歩きながら楽しそうに話す賢木さんをずっと横から見つめていられた。かっこいいと言われる部類に入るであろう賢木さんの横顔は、キラキラと美しくて。気を抜くとそっと手を伸ばして触れたくなるのを、僕は手にきゅっと力を込めて堪えていた。「着いた! この店、知ってるか?」賢木さんに案内されながら辿り着いたのは、中華街の大通りから少し離れた路地の店。間口が小さくて、一見するとそこが飲食店だなんて気付かない。でも確かによく見ると看板が掲げてあって、そこが間違いなく中華料理屋であることを示していた。「……いえ、初めて、です。有名なんですか?」「いや? でも、俺ん中で一番の中華屋! 日本の中華の味に一番近いんだ」カラン、とドアベルを鳴らしながら躊躇なく賢木さんは店内へと入っていく。慌ててそれを追いかけると、思っていたよりも明るい店内が僕達を包んだ。白熱灯のあたたかい照明がお店の雰囲気を和らげていて、中華街の中華料理屋に有りがちなゴテゴテした飾りもなく、カウンターや天井から下がるさりげない装飾がそこはかとないアジアの香りを漂わせていた。「マスターこんばんは」「おぉ、サカキか。珍しいな、今日は独りじゃねぇのか」「あぁ。前に話したろ。俺のリミッター作ってくれた皆本だよ」「なんだ。お前、ホントに友達居たんだな?」「マジで疑ってたのかよ!? 実在するから俺のリミッターがここにあるんだ! マスターだってコレのお陰で俺が調子良くなったの知ってるだろ!」賢木さんはカウンターから見える厨房にいるこの店の主人と覚しき人に向かって叫んでいる。自分の父親ぐらいの歳だろうか、賢木さんにマスターと呼ばれた男の人は僕の方を振り返って気前良く笑った。「アンタがミナモトかい! 話はコイツから聞いてるよ。今日は酒でも飲んでくか?」「バッ! 皆本はまだ未成年! 俺より年下だっつの!」「そーなのか。面白くねぇな……まぁ何でも好きなモン頼んでくれや」ニカッと人の好い笑顔を浮かべて、マスターは厨房の仕事へ戻っていった。「ったく……適当に座ろうぜ。今日は二人だしテーブルに座るから!」厨房に向かって賢木さんが叫ぶと、あいよーとマスターの返事だけが聞こえて。賢木さんが壁際の二人用の丸テーブルに座ったのに倣って、僕も賢木さんの前の席に座った。「……あの、えっと」僕もちゃんとマスターに挨拶するべきだったんだろうか。ちらちらと厨房の方に目を遣りながら賢木さんの様子を窺っていると、賢木さんがこちらを見て、ふわ、と柔らかく顔を綻ばせた。「ココさ、こっちに来た頃から通ってんだ。あんな国捨ててやるって飛び出してきたのに、慣れ親しんだ味が恋しくなるって不思議だよな」言いながら、賢木さんは少し目を細めて遠くを見るような優しい表情を浮かべる。それから僕を見てくしゃりと顔を歪めた。「ここのマスター、日本に住んでたことがあるらしくて、そん時も料理屋やってたんだってさ。だから日本の中華に寄せた味なんだと。サイコメトラーの舌は肥えてるから、味は保証するぜ」ホラこれメニュー、と言って差し出されたメニュー表をおずおずと受け取る。中国語と英語で書かれたメニュー表には、確かに日本人に馴染みのある中華料理が並んでいて。少しだけ懐かしい気持ちになった。「オススメは餃子! こっちの餃子って全部皮が分厚いだろ? ここのは日本のヤツみたいに薄皮の餃子なんだ」オマケに羽根付き! と賢木さんは無邪気に笑って。嬉しそうに喋る賢木さんの話を聞きながら、特にこだわりもなかった僕は、とにかくお腹が減っていることだけを伝えて、賢木さんに注文を任せた。「マスター! 餃子二人前と、酢豚。あと、青椒肉絲と回鍋肉! 皆本、ライスのサイズはどうする?」厨房に向かって叫んでいた賢木さんが、くるりとこちらに顔を向けて首を傾げる。そんな小さな仕草も僕の目にはいちいち可愛く映ってしまう。ふわりと揺れる癖っ毛が光をはらんだようにキラキラと輝いて見えた。白熱灯の灯りがまたそれにふわふわと穏やかな空気を纏わせている。それがまるで、賢木さんが自分とは違う、別の世界の人のように思わせて。じっと見惚れていると、きょとり、と更に首を傾げた賢木さんが僕に向かって口を開いた。「ガッツリ食うだろ? 大盛りでいいか?」改めて賢木さんに問いかけられて、ハッと意識を取り戻して返事をする。「あ……じゃあ、えっと、大盛りで」それにニカッと嬉しそうに笑った賢木さんが、オッケ、と軽く返事をして、再び厨房に向かって叫んだ。「ライス大盛りが二つ! いつもの玉子スープも頼む!」あいよー、というマスターの元気な返事が店中に響き渡る。続いて調理に入ったのか小気味良い厨房独特の音が聞こえてきて、静かだったお店の中が一気に中華料理屋らしい賑やかな空気へと変わった。マスター一人で切り盛りしているようなのに、手際の良い調理音が、まるで複数で調理しているような錯覚を覚えさせる。その変化に気を取られていると、僕を見ながらニヤニヤと笑っている賢木さんが視界の端に映って、慌てて賢木さんの方へ向き直った。にやにやとした、なんだか少しだけ居心地の悪い賢木さんの笑顔から逃れるように、眼鏡の位置を直す。じろじろとこちらを見てくる賢木さんに何とか気を逸らしてもらおうと口を開いた。「な、なんですか……さっきまで静かだったから、急に賑やかになったことに驚いただけで……僕は、別に」一生懸命言い訳しながら、自分は一体何に言い訳しているんだろう、と精一杯くるくる空回りする頭で考える。膝の上に置いた手にぎゅっと力を込めて俯くと、クスリ、と小さく笑う声が耳に届いて。「ゴメンゴメン……俺も何だか浮かれてるんだ」はは、と楽しそうに笑いながら、賢木さんは顔をくしゃくしゃにして僕を見ながら肩を竦めた。「皆本とここに来れたってだけでもすげぇ浮かれてんのに、久々にお前と友達らしいことできてさ……俺、めちゃくちゃ浮かれてるみたいだ」内緒にしていた秘密基地をこっそり打ち明け合うような、そんな二人だけの空気が僕たちを包む。その雰囲気にドキドキしながら、少しだけ友達という言葉に傷付いて、でもキラキラした少年みたいな賢木さんの笑顔に心臓はばくばくと煩くて。どうしようもない気持ちを押し隠しながら、賢木さんの言葉に穏やかな笑顔を返した。「お待ちー、出来たぞー」取りに来てくれー、というマスターの声に賢木さんがいち早く反応して席を立つ。カウンターへ向かう賢木さんの後を追いかけると、食欲をそそる、美味しそうなにおいの品々が所狭しと並んでいた。「皆本これ持ってくれ。俺こっち運ぶから」そう言って手渡された、まだ焼き立てでホカホカと湯気の上がっている餃子の皿と、酸味のきいた香りを漂わせる酢豚の皿を受け取る。賢木さんは残りの青椒肉絲と回鍋肉のお皿を持って自分たちの座っていたテーブルへ移動した。丸テーブルの真ん中にドンと運んできた料理を並べる。如何にも日本の中華らしい、慣れ親しんだ見た目のそれらにゴクリと喉を鳴らして、自然と賢木さんと目を合わせて笑い合った。米とスープも忘れんなよ! というマスターの声に慌てて二人でカウンターに戻る。自分の分のご飯とスープのお椀を持って席に戻った。自分にとって久々のまともな食事に心を躍らせながら、ゆっくりと着席した。「……旨そうだろ? はやく食おうぜ」賢木さんは笑いながら、テーブルに置かれた箸立てからプラスチック製の箸を取り出して僕に差し出す。それを素直に受け取って、賢木さんの様子を窺いながら手を合わせた。自分の分の箸を手に取った賢木さんが、ニカリと笑って手を合わせる。僕もなんだか嬉しくなって、ニッと口角を持ち上げた。「いただきます!」自然と重なりあった声にクスクス笑い合いながら、ご飯を片手にまだ湯気の上っている料理に手をつけ始めた。ひとくち口に運んで、びっくりして目を見開く。「……すごい……日本の中華の味だ」「だろ? 俺も見つけた時はマジで感動したもん」二人でモリモリと食べ盛りの男子よろしく大皿のおかずたちを平らげていく。喋ることよりも食べることに集中して、白米が進む濃いめの味付けに舌鼓を打った。おかずがほとんどお皿の上から消えてしまって、お茶碗に残されたご飯もあと僅か。スープで口の中をさっぱりさせながら賢木さんの様子を窺うと、賢木さんもかなり満足したようで、食べ始めた頃よりも箸のスピードが落ちている。お行儀が悪いかなと思いつつも、残りのおかずを食べ進めながら、賢木さんに問いかけた。「ここ、通われて長いんですか?」先ほどのマスターと賢木さんの様子だと、賢木さんはここの常連だということが窺える。しかも、マスターは僕が賢木さんにリミッターを作ることになる前の様子も知っているようで。賢木さんの心の許し方からもかなりの期間の付き合いが見て取れた。「あー、そうだな……コメリカに来て二、三ヶ月くらい? 経った頃かな。そんぐらいから通ってる」そう考えると結構通ってんな、と最後の餃子を口に放り込みながら、賢木さんは昔を思い出すように空(くう)を見ながら答えている。そのままむしゃむしゃと咀嚼して、ゴクリと口の中の物を飲み込んだ。お箸を持ったままの手で肘を突いて、賢木さんは半ば諦めのような寂しい表情を浮かべながら少し顔を俯けた。「こっちには自由があるけれど、人間の中身はどこに行っても一緒なんだってわかったら、どうしようもなくてさ。そんな時に見つけたんだ、この店」ふ、と力なく笑って、賢木さんは続ける。「外国人街独特のさ、はみ出しモンのコミュニティっていうの? どこでもいいから、自分の居場所はねぇかなってふらついてたら、旨そうなにおいに釣られて。俺の勘もこの店は当たりだって言ってるし、試しに餃子頼んでみたら大当たり! それからは割と通ってるな」賢木さんは氷が溶けてしまったコップの水をごくごくと飲み干した。ふぅ、と一呼吸置いてから、賢木さんは困ったように眉を寄せて、ふは、と軽く笑ってみせた。「ホント何なんだろうな? あんなに嫌だったのに、それでも恋しくなるって。俺の居場所なんてどこにもなかったはずなんだ」やっぱ育った国だからなのかなぁ、と賢木さんはほんの少し、哀愁を漂わせながら呟いて。僕はそんな賢木さんの悲しげな表情に胸を締め付けられて、思わず口を開いていた。「……ぼ、僕が日本に帰ったら、賢木さんの居場所になれます」僕の口から飛び出た言葉に、賢木さんはハッと目を見開いて。「僕が、賢木さんを、一人になんて、しません」少し、前のめり気味になりながら、精一杯の想いを口にする。賢木さんを一人になんてしない。それはこの先どんな未来が待っていようとも、変わらない、と自信を持って言えることだった。たとえ、僕の抱えている気持ちのせいで、賢木さんとの関係が途絶えるようなことになったとしても、賢木さんにとって居心地の良い場所を作るための努力はできるはず。そこに僕が居なくても、僕の作った下地が、賢木さんの居場所となるのなら。人一人の力は小さいけれど、僕は何だって出来る気がした。じっと賢木さんの目を見つめる。カッカッと頬が熱くて堪らないけれど、目を逸らしてはいけない気がして。シン、とした空気が僕たちの間に流れている。ポカン、とした顔で僕を見ていた賢木さんが、ぷ、と笑って変に緊張してしまった雰囲気を穏やかに壊した。「……ありがとな、皆本」ふわ、と柔らかく口元を緩めて、賢木さんは僕を優しい目で見つめ返した。それからほんの少しだけ寂しそうな目をして、ふぅ、と息を吐いてから椅子の背凭れに身体を預けて。「そっかぁ……でもお前、帰るんだな。日本に」僕から目を外してお店の天井の方へ視線を移して、賢木さんは溜め息を吐くように呟いた。その声には何となく残念がるような気持ちが乗っているように聞こえて、そっと目を見開いた。もう一度、天井に向かってそっかぁ、と呟いた賢木さんの表情は白熱灯に照らされているのに、ほんの少し暗くて。「……賢木さんは、戻られないんですか?」ふと、急に賢木さんが遠く離れた存在に思えて。消えてしまいそうな儚い存在へ手を伸ばすように声を掛けた。僕の声にぴくりと反応した賢木さんは、天井から僕に視線を移した。それから、きゅっと眉を寄せて切ないくらい儚げに笑ってみせた。「うーん……正直迷ってる。ここのが、俺の力は活かせるのかなって思ったりもするし」賢木さんは俯きながら、考え込むようにぽつりと呟いて、テーブルに肘を突いて首の後ろを撫でている。賢木さんのそんな様子に胸が苦しくなってじっと見守っていると、賢木さんはその場を誤魔化すように笑って姿勢を正した。「まぁ、お前とここに来れて良かったよ。絶対連れてきたいと思ってたんだ」賢木さんは先ほどまでの空気を払拭するように、からりと表情を明るくしてから頬杖を突いてニシシと笑ってみせた。「お前も日本食が恋しくなったりするだろ? そん時また一緒に来ようぜ」こっちで和食食おうと思ったら金掛かるもんなぁ、と賢木さんは眉を下げて笑う。「ホントは和定食とか食べたいけど、安くて旨い店が見つかんねぇんだよなぁ……」寿司屋もピンキリだし、と続けた賢木さんは、どうやら本当に日本の、馴染みの味に餓えているようで。「まぁ、ここを見つけただけでも儲けもんなんだし、贅沢は言えないよなぁ」人よりも舌が肥えている分、味の微妙な違いに敏感なのかもしれない。そう思うと、食は三大欲求の一つでもあるし、賢木さんが思っているよりも深いところで、賢木さんが育ってきた味である、日本の食事への執着が根付いているのは頷けた。しかも、居場所を求めてこちらに渡ってきたのに、その居場所すら見つけられないとなれば、自分の中のアイデンティティーを無意識に呼び起こして、それを追い求めてしまうのは当然のことのように思えて。ふと、賢木さんのその欲求を埋めたい、と思った。「……僕、和食、作れますよ」「へ?」「あ、あの! もし、賢木さんさえ良ければ! 僕、作ります! 賢木さんの食べたいもの!」気付けば、半ば反射的に叫んでいた。リミッター関連のことだけではなくて、他のことでも賢木さんに関われるならこんなに喜ばしいことはなくて。もっと僕のことを頼ってほしくて、思いつくままに叫んでいた。「僕! 料理は得意なんです! 今でも定期的に和食は作ってるし、腕は落ちてないと思うんです! だから、あの」もっとうまく、スマートに誘えたなら。違和感なく、ただ友達に料理を振る舞うだけだと言えたのに。こんな風にドキドキしながら、下手くそな誘い方をしてしまったら、僕の気持ちを知っているだろう賢木さんを、きっと困らせるだけなのに。それでも僕は、上手い誘い方なんて知らなくて、拙く言葉を連ねることしかできなかった。最後の方はどもってしまった自分が情けなくて俯いていると、いいのか、と小さくポツリと呟いた賢木さんの声が耳に届いた。「え?」「いや、いいのか? こっちで和食作るの、大変だろ?」賢木さんの問いかけに、思わず顔を上げると、そわそわした様子で恐る恐る僕の様子を窺っている賢木さんと目が合って。その目に混じる、キラキラとした期待が感じ取れてドキリとした。「べ、別に、普段から自炊してるので……そんなに大変ってわけでも」ないです、とぼそりと続けると、より一層キラリと目を見開かせて僕を見た賢木さんが、がたりと椅子の音を立てながら前のめり気味に口を開いた。「いいのか? 本気で甘えちまうぞ?」僕の様子を窺いながら、それでもはっきりとした自己主張の意思を賢木さんは伝えてくる。じっと僕を見つめる賢木さんの目に少しむず痒い気分になりながら、ゆるりと目を細めて賢木さんに笑いかけた。「構いませんよ。僕でよければ、いくらでもご馳走します」にこり、と賢木さんに向かって穏やかに微笑むと、うわぁ、と小さく声を上げながら賢木さんは顔を覆ってしまった。「うわ、どうしよ。マジで? マジでいいの? 本当に?」そわそわと落ち着かない様子で、でもずらした指の隙間からしっかりと僕を見ていた賢木さんは、おずおずと繰り返し僕に問いかけてくる。何だかその様子が可愛らしくて、クスクスと笑っていると、ぷぅ、と頬を膨らませた賢木さんがそっぽを向きながら言った。「……サイコメトラーは味にうるせぇの。こっちの料理って大体が大味じゃん。仕方ないって諦めてたとこに、絶対旨い和食が食えるってなったら嬉しすぎて挙動不審にもなるっての」うわーどうしようめっちゃ楽しみ過ぎる。そう呟いて、賢木さんは嬉しさを押し殺せないといった表情でにまにまと口元を緩めている。あまりの期待値の高さに、思わず手と首を振って謙遜した。「そ、そんな……まだ賢木さんの口に合うかなんて、わかんないですし」「いいや、絶対旨いね! 俺のサイコメトラーとしての勘がそう言ってる!」嬉々とした表情で賢木さんは僕に反論した。その顔はこちらの胸が苦しくなってしまうくらい、キラキラと輝いていて。ときめく胸を押さえつけながら、賢木さんは久々の和食に期待しているのであって、僕の料理に期待しているんじゃないんだぞ、と一生懸命自分の中で沸き立つ恋心に言い聞かせた。そう。たとえ僕の気持ちに気付かれていようとも、友達として接してくれている賢木さんを、これ以上困らせるようなことはしてはいけない。それでも、僕の得意なことの何かで、少しでも賢木さんに喜んでもらえるなんて、これ以上の幸福なんてないと思った。僕が少しでも賢木さんのことを笑顔にできるなら、どんなことも惜しみたくないし、何だってしたい。これは、親友として賢木さんの側に居続けることができたとしても変わらない、きっと信念みたいなものだ。恋人になれなくたって、僕は賢木さんの為になりたい。迷惑だって言われるまで、多分僕はずっと、賢木さんの為になることなら何でもできる気がした。「材料の加減にもよりますけど、できるだけ賢木さんの食べたいものを作りますよ?」気持ちを切り替えて賢木さんに笑いかけると、賢木さんは目を輝かせて口を開いた。「俺! 唐揚げ! 醤油味の唐揚げが食いたい!」身を乗り出しながらキラキラと目を輝かせて賢木さんが叫ぶ。その勢いに少しだけ圧されつつ、拍子抜けしてしまった。こちらではなかなか食べられない、煮物だとかそういう、各家庭によって味が左右されてしまうような、要求を満たすには非常に難易度の高いものを注文されると思っていたから、賢木さんの要望に少しだけ呆気にとられてしまった。後ろに身を引いたせいでずれてしまった眼鏡の位置を直しながら、首を傾げて賢木さんに聞き返す。「え、っと……そんな簡単なのでいいんですか?」「俺は! もうこっちの味付けに飽き飽きしてんの! 醤油味が恋しいの!」「なんだぁ?! サカキ、お前、ウチの唐揚げに文句あんのか!?」「違ぇよマスター! 中華の鶏唐は塩味じゃん。日本のヤツは醤油で下味付いてんの!」バッと立ち上がりマスターに向かって賢木さんは言い返した。軽く言い合いを続けている賢木さんとマスターの様子を見守りながら、ふむ、と賢木さんの言う唐揚げについて考える。「……唐揚げっていうより……竜田揚げみたいな感じですか?」僕の問いかけに賢木さんは、んん? と顔中に疑問符を浮かべながら僕の質問に答えた。「唐揚げと竜田揚げの違いがわかんねぇんだけど……とにかく、醤油が、恋しいんだ」ドサッと椅子に腰を下ろした賢木さんは、がくりと力なく項垂れて頭を抱えてしまって。僕は慌てて賢木さんに声を掛けた。「わ、わかりました! えっと、醤油味っていうと鶏の照り焼きもありますけど、唐揚げでいいんですね?」「唐揚げがいい。レモンと肉汁がじゅわっと溢れてくるヤツ」机に突っ伏すような体勢から顔だけを上げて、賢木さんは僕に向かってぼそりと呟いて。少し頬を膨らませて子どもが駄々を捏ねるようなその様が何とも可愛らしくて、クスリと笑ってからしっかりと頷いた。「わかりました。それなら材料も簡単に手に入りますから。いつでも作れますよ」途端に嬉しそうに顔を輝かせた賢木さんはやっぱり可愛くて。きゅんきゅんと胸が高鳴るのを感じながらにこりと微笑みかけた。「マジで! じゃあさ、ホント皆本の都合に合わせるから! まだ研究忙しいんだったら落ち着いてからでもいいから……」「大丈夫ですよ。うーん、じゃあ二日後の土曜日の夜とか、いかがですか?」「えっ!? そんなすぐでいいのか?」「もう研究は落ち着きましたから。でも賢木さんも落ち着いて食べたいと思うので、週末の方がいいかと思って」「俺は全然食べられるならいつでもいいんだけど! ホントにいいのか?」「いいですよ。張り切って腕を振るいますね」「うわー! マジか! ありがとう皆本っ!!!」がばり、と身を乗り出して、賢木さんは込み上げてくる喜びを隠しきれないといった様子で僕の両肩を掴んだ。その表情と肩を掴む力の強さが、賢木さんの喜びを余すことなく僕に伝えてくれている。母と自分の為に始めた料理だったけれど、こんなところで役に立つとは思っていなくて、過去の自分の努力に感謝した。「やべー……すっげぇ嬉しい」僕の肩から手を離して、にやける頬を隠すように手のひらで覆った賢木さんは、本当に嬉しそうで。思わず僕も笑ってしまった。「賢木さんのお役に立てることができて、僕も嬉しいです。今度の土曜日、楽しみにしてますね」肩の力が抜けて僕の口から出てきた言葉は、堅苦しさもなく、素直に嬉しいという想いを伝えられたと思う。自分の気持ちの在り処なんて関係なく、ごく自然と笑えた気がした。こそばゆいような嬉しさに身体中が満たされて、心の芯があたたかい。きっと聡い賢木さんのことだから、そんな僕の気持ちもきっと気付いているだろう。それでも、この心の底から満たされるような嬉しさは、隠す必要なんて感じられなくて、全部賢木さんにも伝わってしまえと思えた。抑えきれない気持ちに笑みを深くすると、賢木さんも嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。「もーお前ホント何なの?! 俺ばっか何かしてもらってんじゃん! よし、わかった! 今日はもう俺が奢るから! それぐらいさせろ!!!」「え! いや、そんなわけには」「いーから! たまにはお兄サンさせろよ!」マスターお勘定! と賢木さんは僕の制止も構わずに、カウンターの方へと立ち去ってしまった。追いかけようとしたけれど、賢木さんがもう財布を出してお金を払っているのが見えて、上げようとした腰をもう一度椅子に落ち着かせた。賢木さんの言葉を反芻して、自分は賢木さんにとって弟みたいなものなのかな、と賢木さんの横顔を見ながら考える。年下で仲の良い男友達、となると、確かにそんな感じなのかもしれないな、と少しだけ胸がチリリと痛んだ。どうせならもっと特別な立場になりたい。でもそれはきっと、僕の恋心からくる我が儘だ。「皆本ー、俺帰る前にトイレ行ってくるわ。ちょっと待っててくれー」「あ、はい! ここで待ってます!」僕に向かって片手を上げて笑った賢木さんが店の奥へと消えていく。その後ろ姿に手を振りながら見送って、静かになった店内の様子を見渡した。あたたかな白熱灯の灯りがここに来たときと変わらず空間を包んでいて、ああ見えて穏やかなところがある賢木さんは、お店の雰囲気も気に入っているんだろうなぁと思いを馳せた。それから、厨房で新聞を読んでいるマスターが目に入って、ハッと立ち上がってマスターに声をかけた。「あ、あの、僕、皆本光一と言います。賢木さんにお世話になっていて……」「ああ、そんな堅苦しいのはいらねぇよ! アンタの話はサカキから聞いてるしな!」ニカッと明るい笑顔を新聞から覗かせたマスターは、ゆっくりと立ち上がって僕に向かって口を開いて。「サカキの奴をよろしく頼むよ。アイツあんなだけど、どうも危なっかしくてな」独りにしておくと自棄になって何しやがるかわかんねぇからな、と続けたマスターは、料理店の店主と客の関係だけれど、それ以上に賢木さんのことを気にかけてくれているのが伝わって。僕の好きな人は、こんなにも周りから愛されている。なんだかその事実だけで嬉しくなって僕の気持ちも舞い上がった。「おまたせー皆本……ってアレ? 俺抜きでなんか喋ってた? まさか陰口……」「あーそうだよ! お前が如何にガキかってのをミナモトに教えてたんだ」「ちっ、違います! 日頃から賢木さんにはお世話になってますって話をしてただけで……」あわあわと慌てて否定すると、ぷ、と賢木さんはおかしそうに吹き出して僕の頭をポンと撫でた。「わかってるよ。皆本が俺の悪口言うなんて有り得ないってちゃんと知ってる」ふわりと微笑んだ賢木さんの表情があまりに優しくて、ぎゅっと胸が締め付けられた。寄せられた信頼が嬉しくて、でも賢木さんが好きだと叫ぶ気持ちが切なくて。僕は曖昧に笑って返すことしかできなかった。
そう、これはたとえばの話。



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