賢木さんを避けるようになって一週間。何だかんだと僕を訪ねてくる賢木さんを、あの手この手を使って躱していた。寂しそうに笑って去っていく賢木さんの後ろ姿を見る度、胸が苦しくて堪らなかったけれど、自分がこんな状態じゃとても友人の仮面を被っていられる自信が無い。顔を見るだけで溢れてしまいそうなこの気持ちを押し込めるだけで、僕は精一杯だった。それでも、笑顔で僕を訪ねてきてくれる賢木さんに、しばらく会えない、会いたくない、なんて言うこともできなくて。賢木さんに会えて嬉しいという気持ちと、それを素直に喜べずに拒否しなければいけない現状に挟まれて、圧し潰されてしまいそうだった。幸い、賢木さんが僕の家にまで訪ねてくることはなくて、週末は顔を合わせずに済んだけれど、また明日から賢木さんを自分から遠ざけなければならない生活が始まるのかと思うと、週が明けてしまうことが憂鬱で仕方がなくて。こんなにどんよりとした週明けを迎えるのは人生で初めてかもしれない。僕のラボを訪ねてくる賢木さんの笑顔は眩しくて、ずっと見ていたいと思えるほどなのに、その笑顔を自らの手で曇らせてしまうなんて、なんて矛盾を抱えているんだろうと自分を笑ってしまいたかった。ずっとラボに籠もっているせいで、研究は捗って論文も形になりつつある。これが終わってしまったら、どうやって理由を作ろうか。ふぅ、と手を止めて窓の外を見つめる。雲一つ無い空が眩しくて、手を翳して目を細めた。あんな風に僕の気持ちも澄み渡ったものだったなら。きっとすぐに要らない部分は切り捨てて、友人として付き合っていくことは簡単だっただろうに。ギラギラとした太陽も、陽を遮る大きな雲も、全てを洗い流してしまうような雨も抱えた激しい空模様を含んだ僕の心の空は、簡単には綺麗になってくれなさそうだった。空に浮かんでいる太陽の位置に、ふと時計を確認して、とうに昼を過ぎてしまっていたことに気付く。流石に何か食べようと、論文を書いていた手を止めて、適当にデスクを片付ける。また戻ってくるからと財布だけ持ってラボを出ようと、ドアを開けた時だった。「……よう」「……賢木、さん」ドアを開けたすぐ側の壁に凭れるようにして立っていた賢木さんが、こちらに向かって身体を起こした。「最近ずっとフラれてばっかだから。昼飯狙えばちょっとくらい喋れるかと思ってさ」「あ……えっ、と……」「これから飯だろ? それとも帰るトコか?」「いえ……何か、食べようと、思ってはいるんですけど……」「じゃあいいだろ? ちょっとくらい俺にも構えよ!」あんまりラボに引き籠もって、研究ばっかに夢中だと息詰まっちまうぜ? と笑う賢木さんを、僕は断り切れなくて。「……そうですね……すみません」ぎゅっと痛む心臓を何とか誤魔化して、眉を寄せながら笑う。ちゃんと笑えている自信はなかった。でも、行こうぜ、と嬉しそうに笑う賢木さんの、その笑顔がどうしても眩しくて。僕は賢木さんに一歩近付いて歩き出した。「……マジで最近ずっとラボに籠もってるみたいだけど。ちゃんと息抜きしてんのか?」ついこの前まで賢木さんと通い詰めていた、ひと気の少ないカフェテリア。賢木さんと昼食を食べるときはいつもここだった。そんな習慣を途絶えさせてまだそんなに日も経っていないはずなのに、何だかとても久し振りのように思えて、いつも自分たちが座っていた定位置を陣取っても、何故か少し落ち着かなかった。「えぇ……まぁ……」以前も食べていたランチセットもどこか口に馴染まなくて、進まないフォークを無理矢理突き刺して少しずつでも口に運んでいく。食べ終わってしまえばここに留まる理由がなくなってしまうから、きらきらと眩しい賢木さんから逃れることができるはずなのに。口に入れたものを何とか咀嚼して飲み込むと、じっと僕を見つめていた賢木さんが、ふぅ、と溜め息を吐いた。「皆本……お前、ちゃんと寝てねぇだろ? それから飯も食ってない。違うか?」「あ……えっと……」「俺は外科専門だけど、それくらい顔見りゃわかる。いくら忙しいからって、自分の身体のメンテナンスを怠ってたら、身体が持たねぇぞ?」「……すみません」「謝るのは俺にじゃなくて、お前の身体に、だろ? 俺はただ心配してるだけ。友達なんだからさ」な、と優しく笑う賢木さんの眼差しが自分に注がれる。こんな風に真正面から賢木さんと目を合わすのは久々で、それだけでも熱が上がってしまいそうなのに、そんなに優しい目で見つめられたら。僕の扱いきれない厄介な恋心はどこまでも舞い上がって、はち切れてしまう。なのに、賢木さんの口から告げられた『友達』という言葉。それがまるで返しの付いた槍が思い切りぐさりと胸に刺さったようで、ジクジクと痛む。何とか曖昧に笑って、賢木さんの目から視線を外すことしか、僕にはできなかった。呼吸すら止まってしまいそうな痛みを誤魔化しながら、何とか笑顔を取り繕って、懸命に言葉を探す。「……もうそろそろ、研究も目途が立ちそうなんです。論文も、何とか」そう。今一心に身を投じている研究は、もうすぐ結論が纏まってしまう。論文を書き終えてしまえば、賢木さんを避ける理由もなくなってしまう。でも、まだ。まだ自分は賢木さんと友人の顔をして付き合っていけるだけの状態になっていない。このままじゃ、本当に賢木さんから離れなきゃいけなくなってしまう。どうしよう。胸が苦しい。何とか、自分の気持ちに蓋をして、賢木さんの友人として彼の側に戻らなくては。でも、一体どうすれば。どうすれば、今にも溢れてしまいそうなこの気持ちを、なかったことにできるんだろう。「……そっか。ならよかった」ふわり、と賢木さんが柔らかく笑う。穏やかなその表情に目が奪われて、ドキドキと存在を主張する胸が煩くて仕方がない。テーブルの下で握り締めた拳にぎゅっと力を込めて、ギシギシと軋む胸の痛みをやり過ごした。「俺さ、お前に負担掛けてたんじゃねぇかって、心配してたんだ」眉を寄せてくしゃりと表情を崩した賢木さんが、テーブルに肘を突いて僕に向き直る。「皆本、急にラボに閉じ籠もっちまったじゃん。俺のリミッター作ってもらってたから、研究遅れちまってたのかなって」キラリ、と、賢木さんの腕に僕の作ったリミッターが光った。「申し訳ないことしたなって、ここんとこ、気が気じゃなかった」ゴメンな、と呟く賢木さんに、ブンブンと首を振って否定する。僕がラボに籠もったのは賢木さんのせいじゃない。僕が勝手に、賢木さんから距離を置くために研究に没頭することにしただけだ。論文だって研究だって、締め切りはまだずっと先。急ぎでやらなきゃいけないことなんて、何一つなかった。だから、賢木さんが悪いことなんて何もない。でもそれを当たり障りなく、賢木さんに上手く伝える言葉が思い浮かばなくて。僕はぎゅっと眉を寄せて俯いて首を振ることしかできなかった。「お前の時間、毎日割いてもらってたんだなって気付いてさ。ホント、ゴメンな」「……賢木さんに、謝ってもらうようなことは、何もないんです……リミッターは、僕が賢木さんの為にやりたいと思って、やったことだから」ぽつり、と本当のことを伝える。これは真実。僕の気持ちは乗っていないはず。いろいろなことに敏感で聡い賢木さんに、僕の抱えている気持ちがバレてしまうことはないはずだと自分に言い聞かせて、そろりと賢木さんの表情を窺い見る。賢木さんは僕の顔を優しい目で見つめながら、ふわりと笑った。「ならさ、今の研究が落ち着いたら……時間あるときにでも、また……会えると、嬉しい」久々に真正面から見る、賢木さんの綻んだ笑顔。少しだけ恥ずかしそうに目を細める賢木さんの柔らかい表情に、僕は胸を締め付けられて、苦しくて苦しくて仕方がなかった。でも、そんなこと少しでも表に出しちゃいけない。泣いてしまいそうになるのを、ぎゅっと目元に力を入れて何とか誤魔化す。口元だけは何とか笑みの形を保ったまま、長い前髪で表情を隠すように俯いた。これからも僕と会いたいと言ってくれている賢木さんに、何と答えればいいのかわからなくて、返答に困ってしまう。だって、まだ。まだ僕は友達の仮面を被れていない。シン、としてしまった二人の空間に、ぽつり、と賢木さんは呟いた。「……俺は、お前のこと……親友、って、思ってる、から」くぐもった声にハッとして顔を上げると、頬を染めてそっぽを向いた賢木さんが、肘を突いて口元を押さえていて。賢木さんは恥ずかしいのかほんの少しだけど目元まで朱くしている。そんな姿に目を奪われながらも、『親友』と告げられた言葉にちくりと胸に針が刺さるのを感じて、どうしようもない気持ちにさせられた。自分の中で溢れかえる想いに蓋が出来なくて、苦しいはずなのに、賢木さんの全てが僕を舞い上がらせる。本当にぐちゃぐちゃとかき混ぜられるみたいに上手く頭が回らなくて、早くここから逃げ出してしまいたい、と思った。僕がそんな風に激しい衝動と戦っているなんて知らない賢木さんは、口元を覆っていた手を下ろしてテーブルの上で腕を組む。少しだけ落ち着いた頬の赤みのまま椅子に座り直して、照れを含んだ表情でニカリと笑った。「マリアとクリスに言われたんだ。俺たちは親友なんだって」賢木さんは恥ずかしいけれど嬉しい、といった様子で、僕に向かって笑いかける。その笑顔は、本当に純粋にきらきらと輝いて見えて。どうしたって胸がときめいて堪らなかった。少しだけ僕から視線を外して、でも、改めてくしゃりとした笑顔を僕に向けて、賢木さんは小さく、僕にだけ聞こえるような声でそっと呟いた。「……親友なんて、できるの初めてだから。迷惑じゃなければ、俺は、お前との関係を大事にしたい」そう言って、またふわりと花が綻ぶように笑った賢木さんに、嬉しいのに、悲しくて、じわりと熱くなる目を、無理矢理笑みの形にして微笑む。「……そう、ですね」声が掠れなかっただけ、自分を褒めてやりたい。今なら何とでも理由を付けられる。研究が忙しくて自分のことなんて後回しだったから、とか、論文ばかり書いていて自分のケアどころじゃなかったから、とか。どこからどう見てもボロボロの自分を、上手く取り繕える理由なんて、今なら幾らでも並べ立てられる。研究に身を投じている間は、今の自分を誤魔化す為にどんな言い訳だってできるはず。だからきっとこの情けない有様も、友達として賢木さんは笑い飛ばしてくれるだろうし、以前の僕とは変わってしまった僕のことを親友として心配してくれるだろう。「……とにかく、落ち着いたら、連絡します。ごめんなさい」賢木さんの視線から逃れるように少しだけ俯いて、当たり障りのない言葉を呟く。いろいろな想いが詰まった謝罪の言葉を伝えると、賢木さんは緩く目を細めて僕に笑いかけた。「いいって。わかった。連絡待ってる」じゃあまたな、皆本、と賢木さんは笑って僕の前を去っていく。僕は座ったままその後ろ姿を見届けて、はぁ、と深く溜め息を吐いた。「……そうだよな。友達、だもんな」しかも、親友。自分たちはそういう関係。僕が抱えているこの感情だけが余計で、それ以外のものはいたって普通の男友達。僕だけがおかしいんだ。「はやく、早く何とかしないと……」自分の気持ちに蓋をして、早く賢木さんの友人である自分に戻らないと、きっと取り返しがつかなくなる。もう一度深く溜め息を吐いて、頭を抱え込んだ。
そう、これはたとえばの話。



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