いとし いとし と なく こころ

「あ、ちょうどいいところに」 任務上がりの検査を終えて、薫ちゃんと葵ちゃんと三人で廊下を歩いている時だった。 バッタリと出会でくわした皆本さんに声を掛けられて、足を止める。薫ちゃんがタタッと皆本さんに駆け寄って、皆本さんの腕に絡みついた。「皆本っ! もう仕事終わりなの?」「ああ。それでな、一緒にご飯行かないか?」「えっ! いいの? 行く行く! いいよね? 二人ともっ!」 皆本さんに誘われて嬉しそうに飛び跳ねている薫ちゃんを見ていると、断るなんていう選択肢は思い付かなくて。折角なんだから二人きりで行ってくればいいのに、と思いながら、葵ちゃんと肩を竦めながら顔を見合わせた。「薫がエエんやったら構へんで?」「そーそー。私たちがお邪魔しちゃってもいいのかしら?」「へぇっ_?!_」 私たちの問いかけに顔を赤くした薫ちゃんが、わたわたと焦って皆本さんに絡めた腕を解ほどいている。 そんな様子を可愛らしいなと思いながら、私たちは断ろうか、と葵ちゃんと目配せして頷いていると、皆本さんが慌てたように手を振って言葉を続けた。「いや! 食事には賢木も来るんだ! だから、君たちも一緒に、どうかと、思って……」 薫ちゃんと皆本さん、二人ともが顔を赤くして慌てている。その様子が何だかやっぱりお似合い過ぎて、思わず吹き出して笑ってしまった。 でも、食事には賢木先生も一緒だという言葉に、また心臓がドキドキと煩くなって冷静でいられなくなってくる。「なんや。賢木先生もおるんやったら、はよ言うてぇな。要らん気ぃ遣てしもたやん」 ニヤニヤと笑いながら皆本さんに近付いていく葵ちゃんに引っ張られて、薫ちゃんの側へと歩み寄る。「先生と皆本ハンの奢りやったら行くで! なぁ、紫穂?」 急に葵ちゃんに声を掛けられてどきりと心臓が跳ねる。あからさまにビクリと震えた肩を三人に見られてしまって、今度は私があわあわと慌てる番だった。「あの、私は、ちょっと、用事があるから……」 かなり無理のある断り方をしているという自覚はあった。 だって今日は何の用事もなくて、帰ってからどうやって過ごそうか、とさっきまでわいわいと話し合っていたところだった。そんな流れがあるのに急に用事が湧いて出るなんて、どう考えたっておかしい。 それでも何とか食事に行くことは避けたいと必死に考えを巡らせているところに、皆本さんが止めを刺しに来た。「……あのさ、紫穂。その……賢木が……君に会えるの、楽しみにしてる、って」 皆本さんは、困ったように眉を八の字にして笑っている。葵ちゃんはひゅう、と口笛を鳴らして、薫ちゃんは、おお! と驚きながら口許を押さえていた。 じっと私を見ている三人が、私がどんな返事をするのか、今か今かと待っている。 ――ズルい。 こんな、こんなの、断れないじゃない。 皆本さんを使うなんて、本当にあの男、ズルすぎるわ。 さっきから熱くて堪らない頬を冷ますように手のひらで覆って、はぁぁ、と溜め息を吐いた。「……わかった。わかったわよ。行けばいいんでしょ」 諦めたように溜め息を吐きながら告げると、ほっと安心したように皆本さんが携帯を取り出してメッセージを打ち込み始めた。きっと先生に連絡を入れているんだわ、とじとりと恨めしげに見つめると、困ったように笑って皆本さんはひらひらと手のひらを翳した。「今日、僕、車だから。皆で行こう。先に駐車場に行っててくれ」 そう言ってそのまま廊下を駆けていった皆本さんの背中を見送る。すると薫ちゃんと葵ちゃんがその場に立ち尽くしていた私の腕を取って歩き始めた。「ほら! 早く行こうよ! 紫穂!」「せやせや! 賢木先生も待っとるで!」 逃げられないようにとグイグイ腕を引っ張られて、重い足取りも無理矢理前に進められてしまう。ここで変に抵抗すると、きっとテレポートかサイコキネシスで皆本さんの車が停まっているところまで運ばれてしまうのは明白だったから、素直に諦めて歩き始めた。 それにしたって、本当に私たち全員を食事に誘うなんて、先生はどうかしているとしか思えない。また今度、と言っていたあの日から、そんなに日は経っていない。有言実行と言わんばかりの行動力に、どう応えればいいのかわからなくなってしまう。しかも、皆本さんを使って、私に会えるのを楽しみにしてる、なんてことを伝えてくるなんて、本当にどうかしているとしか思えない。 そんな浮わついた言葉を、他人を通してまで、聞かせないでほしい。「それにしても、先生、流石としか言われへんセリフ回しやったな」「ホントホント! 紫穂に会えるの楽しみにしてる……なんてもう告白してるのと一緒じゃん!」「いやー、実際に言われたらウチはちょっとクサすぎて引いてまうかな……でも、賢木先生やからこそ、あんな歯ぁ浮いてまうようなセリフでも決まってまうんやろなぁ」 私を間に挟んで喋り始めた二人に、カァァ、と頬が熱くなっていくのが自分でもわかる。どうしようもなくドキドキと煩く鳴り響く心臓を何とか押さえつけて、二人の言葉を反芻する。 告白ってなに。 まるで、そんな、先生が私のことを好きだみたいな言い方しないでほしい。勘違いしてしまいそう。 いや、そもそも、勘違いってナニ。 私と賢木先生の間には何もなくて、勘違いとか、そういう浮わついたこととは一切関係ない関係性なんだから。 だから止めて。 お願いだから、私の心に入ってこないで。 これ以上、私の心を乱さないで。 ぎゅっと目を瞑って思考をシャットダウンすると、二人の足がピタリと止まって。恐る恐る目を開くと、皆本さんの車の前まで来ていることに気付いた。「なぁ、紫穂? さっきからずっと黙ってるけど、どうかしたん?」「えっ_?!_ わっ、私ッ、別に何も考えてないわよ_?!_」 あわあわと手を振って挙動不審になるのを何とか誤魔化しながら答えると、ニヤニヤと笑う薫ちゃんが私の顔を覗き込んでくる。「怪しいなぁー? どうせ、先生のことで頭がいっぱいだったんでしょー?」「うッ、嘘は止めてくれるッ_?!_ 何時何分何秒に私が先生のこと考えてたっていうの_!!!_」 いやらしく笑う薫ちゃんに突っかかりながら叫ぶと、はぁぁぁぁ、と葵ちゃんが深い溜め息を吐いて私の肩を叩いた。「……紫穂、アンタも意外と子供の頃から何も変わってへんねんな」 呆れたように呟いた葵ちゃんに、そんなことない! と叫ぼうとしたら、駐車場に響いたこちらに向かって駆けてくる足音に邪魔されてしまって。「待たせて悪い! さぁ、行こうか」 私たちに駆け寄りながら、車のロックを外した皆本さんの声が駐車場に響く。じりりと葵ちゃんを睨みつけながら、薫ちゃんに背中を押されて三人揃って後部座席に乗り込んだ。 わちゃわちゃと後部座席に乗り込んで、三人できゅうきゅうと身を寄せる。小さかった頃は難なく三人座れていたスペースも、今ではもう身を寄せ合って座らないと座れなくなってしまった。それでも誰かが助手席に移動するという発想はなくて、きっと皆本さんと薫ちゃんの関係性が明確に変わるまで、三人で後部座席にくっつき合って乗ることになるのだと思う。 運転席に乗り込んだ皆本さんが、シートベルトを調節してミラーの位置を確認する。子どもの頃から変わらない皆本さんのその習慣を見届けて、自分たちもシートベルトを締める。皆本さんはそれをバックミラー越しに確認してから車のエンジンを掛けた。 滑るように動き出した車はバベルの駐車場を抜けて、都会のビル群の隙間を縫うように走っていく。「ねぇ、皆本? どこに向かってるの?」 薫ちゃんが少しだけ身を乗り出して、バックミラー越しに皆本さんに声を掛ける。皆本さんはチラリと視線を動かして、鏡越しに笑顔を作ってから、また進行方向へと真っ直ぐに視線を移した。「店は賢木に任せたから。僕も初めて行く場所なんだ」 ハンドルを切りながら答えた皆本さんは、ナビの指示通りに車を運転しているらしく、どうやら知った道を進んでいるわけではないらしい。ナビの案内に従って進んでいく窓の外の景色をぼんやり眺めていると、ビルが並ぶ都会を抜けて、少し郊外の住宅街へと変わっていった。 車のスピードが緩くなって、駐車場が併設された小さなレストランと思しき建物が見えてくる。「着いたよ。ここで合ってるはずだ」 皆本さんが駐車場の空いたスペースに車を停める。駐車場の中に見慣れた車体を捉えてしまって、とくんと鼓動が少し早くなった。車が完全に停車して、皆がシートベルトを外して外に出ようとしているのに気付いて、慌てて私もシートベルトを外す。ドキドキと煩い心臓を誤魔化しながら、葵ちゃんに囃し立てられるように外へ出た。そうすることでよりはっきりと見えてしまった先生の車。ドキリと一瞬強張ってしまった身体を葵ちゃんと薫ちゃんに引っ張られながらレストランの入り口へと向かった。「賢木はもう着いてるみたいだね」「車停まってたもんね」「先生のことやし、待たせるのは男の恥とかそういうんちゃう?」 まるで私の心の中を言い当てるように三人が先生の車を視認して口々に喋り出す。それを聞いて、上がってしまった心拍数が更に上昇してバクバクと私の身体を急き立てた。 賢木先生が先に着いている。 ただそれだけのことなのに、こんなにもドキドキしてしまう自分自身にわけがわからなくて、この場から走って逃げ出してしまいたくなる。薫ちゃんと葵ちゃんに腕を引かれている今の状態じゃ、それも叶わないけれど。「賢木先生、お待ちかねなんちゃう? なぁ、紫穂?」 ニヤリと笑いながら私の顔を覗き込んでくる葵ちゃんから顔を背けて、ぷっと頬を膨らませる。「……別に、先に着いてただけ、でしょ」 ぽつり、と小さく呟くと、ぎゅうぎゅうと薫ちゃんに横から抱き締められてしまった。「あぁん! もう、紫穂はホント可愛いなぁ! お嫁になんかやりたくない!」「おいおい……薫は紫穂の父親じゃないだろ」「でもさぁ、心情的に! 簡単には渡したくないっていうか!」 やいやいと皆本さんに言い募りながら薫ちゃんは私の頭を撫で廻している。それを素直に受け止めながら、赤くなっていく頬を手のひらで押さえて、視線を足元へ落とした。「……まるで先生のところへお嫁に行くみたいな言い方、やめてくれるかしら」 そもそも先生と私はそんな関係じゃないし。ぶつぶつと、小言を垂れるように呟くと、ニヤニヤ笑う薫ちゃんと葵ちゃん、それから驚いたような顔をしている皆本さんが私の顔を見ていて。「……な、なによ?」 三人の視線に耐え切れなくて思わずたじろぐと、ふわりと笑った皆本さんが私の頭をポンポンと撫でた。「いや? 少しずつ態度が軟化していってるな、と思って」 どういうこと? と問い返す前に、皆本さんがお店のドアノブに手を掛けた。「さぁ、もうそろそろ行こう。これ以上、賢木を待たせるのは悪い」 カラン、と質のいいドアベルの音が鳴って、店の中の様子が視界に飛び込んでくる。白熱灯のあたたかい照明が灯る店内は、静かに食事を楽しんでいる人で溢あふれていた。「いらっしゃいませ。何名様ですか?」「賢木で予約が入っているはずなんですけど」「賢木様ですね。……先にお連れ様がお待ちです。お席へご案内致しますね」 皆本さんとお店の人のやり取りを聞き流しながら、そろりとお店の中を見渡して先生の姿を探す。先生を見つけられなくて少しだけガッカリした自分を自覚して、ハッと慌てて視線を皆本さんとお店の人に戻した。無意識にとっていた自分の行為に恥ずかしくなって、身を隠してしまいたいという気持ちに襲われる。どうぞ、という案内の声に導かれてフロアの奥へと進んで。歩きながら自分の行動が薫ちゃんや葵ちゃんにバレていないことを祈って、どきどきと煩い心臓を何とか抑えつける。 フロアの奥まったところにあるドアを開けると、そこは個室になっていて、先に到着していた先生がこちらを向いて手を上げた。「よっ、皆本。それに皆も。お疲れさん」 どうぞごゆっくりお過ごしください、という一言を残して、お店の人は扉を閉めて去っていった。 個室の中は六人掛けのテーブルが用意されていて、先生はドアから見て奥側の真ん中の座席に座ってひらひらと手を振っている。「待たせて済まない、賢木」「いや? 俺もさっき着いたトコ」 皆本さんが賢木先生の前の席に座って、その両隣に薫ちゃんと葵ちゃんが座った。あっという間に決まってしまった席順に、私ひとり、ドアのところに立ち尽くしてしまう。ニヤニヤと笑う薫ちゃんと葵ちゃんに、座らないの? 紫穂、と声を掛けられて、渋々、先生の隣の席に座った。できる限りテーブルのギリギリ端まで椅子を寄せて、少しでも先生から距離を取る。その間も先生と皆本さんは簡単な近況報告を続けていて、特に私の様子なんて気にしている様子は見られなかった。 それに何だかモヤモヤしたような、ホッとしたような、何とも言えない気持ちを感じて、それを振り払うように頭を振る。そんな私の姿を、やっぱり薫ちゃんと葵ちゃんは見ていて、ニヤニヤとした視線を投げ付けられたのを、赤くなりながら、プイッ、とそっぽへ顔を向けた。「どうかしたか? 紫穂ちゃん」「な、なんでもないわ!」 皆本さんと喋っていたはずなのに、急に先生がこちらに声を掛けてきてビクリと肩を震わせる。赤くなった顔を見られないように俯いたまま答えると、皆本さんたちの会話が途切れたのを見計らったように薫ちゃんが口を開いた。「それにしてもさ、賢木先生と会うの、久し振りな気がする!」「確かに! そう言われてみれば、ウチもこの前の大規模作戦の時以来、全然会うてへんわ」「……まぁなー。用がねぇと本部には行かねぇし、本部に行っても用を済ませたら医療研究棟に戻っちまうしな」 忙しいんだよ、俺、と笑う先生に、じゃあこの前廊下で会ったのは何だったの? と疑問が浮かぶ。 夜、食事に行かないか、と誘ってきたのは一体、なに? 忙しいのに、わざわざ時間を作って、私と食事に行きたいだなんて、どうかしてる。 とくとくと高鳴る胸に、熱が集中してくる頬。まるで制御が効かない自分の身体に戸惑うしかなかった。「そんな忙しいのに、なんで急にウチらと食事なん? 医療棟の仕事があるんちゃうの?」「ああ、俺明日からしばらく本部だから、今日の夜から医療棟のシフト外れてこっちに帰ってきたんだよ。だから、久々に食事でもどうかな、と思って誘ったワケ」「……明日から本部会議だもんな。まぁ、医療部隊も、いつまでも賢木に頼りきり、っていうのも問題だし」「そうそう。たまには俺抜きで頑張ってもらわねぇとな」「ねぇねぇ、そんなことより! お腹空いた! なんか頼もうよ!」 パッと話題を変えた薫ちゃんに、ああそうだね、と皆本さんがメニューに手を伸ばした。 私もメニューを見ようと手を伸ばすと、さり気なく先生がメニューを開いて手渡してくれる。にこりと微笑まれて、どぎまぎしながら素っ気なくメニューを受け取って、小さくアリガトと呟いた。「うわッ、なにこれ! メニューがお洒落過ぎて全然わかんない!」「ホンマや……カタカナばっかりでどんな料理か全然わからへん……」 目を見開いてメニューを睨み付けている薫ちゃんと葵ちゃんにつられて、私もメニューの文字を目で追っていく。確かに聞き慣れないメニューばかりが羅列されていて、どれを注文しようかと躊躇ためらわせるものばかりだった。「……創作イタリアンか。料理名に囚とらわれずに直感で食べたいものを選ぶといいよ」 皆本さんが薫ちゃんの持っているメニューを覗き込みながら二人に優しく助言している。眉を寄せながらメニューと睨めっこしている薫ちゃんに対して、葵ちゃんはすぐにメニューに馴染んだのか一つ一つ料理名を指で辿りながら先生に向かって口を開いた。「創作イタリアンとか、こんなこじゃれた店、今まで連れてってくれたことなかったやん。なんで今日はいつもみたいなファミレスとか焼肉とか、そういう店とは違うのん?」「ああ……それは……君たちも、そろそろこういうお店に連れてきてもいい年頃かと思ってさ」 隣で二ッと笑う先生の気配を感じながら、大人として認めてくれていることにドキドキして、黙々とメニューの文字を拾っていく。「……そんなん言うて、ホンマはこんなお洒落な店も知ってるんやで、ってアピールしたかったんちゃうん?」「あー……そういうのはさ、まぁ、いいじゃん。皆本、今日は俺多めに出すから。コースにしちまおうぜ」「え、いいのか?」「そういうちっさいアピールもやらしいで、先生」「ぐっ……葵ちゃん、頼む。それ以上は止めてくれ」「デザート二品」「……わかった。何でも注文してくれ」「おおきに! 流石、エエ男は気前がエエわぁ」「えっ! ズルい! 私もデザート食べたい!」「ああ、いいよ。薫ちゃんも好きなの頼んでくれ」 がっくりと項垂れた先生に対して、やった! と明るい声を上げて薫ちゃんと葵ちゃんはデザートメニューを広げている。その遣り取りをぼんやりと眺めていたら、そっと横からデザートメニューが差し出された。ふと顔を上げるとふわりと笑う先生と目が逢った。「紫穂ちゃんも頼むだろ?」 ん? と小首を傾げて微笑みかけてくる先生からメニューを受け取って、うん、と小さく答える。 先生に優しく微笑まれているだけなのに、かぁぁと上昇する体温に思わず、こっち見ないで、と手のひらで目許を覆った。そんな私に少しだけ驚いたような表情を見せた先生は、おお、と小さく呟きながら口許を覆って私から顔を逸らして。 ほ、と息を吐いてデザートメニューを見ようとすると暖かい目線を向けている三人と目が合ってしまって、バッとメニューに顔を伏せた。何も恥ずかしいことなんてしていないはずなのに、今すぐこの場から消え去ってしまいたい気持ちでいっぱいになって堪らない。何とか深呼吸をしてメニューを選んでから何でもない顔をして顔を上げた。「……そろそろウェイターさん呼んでいいか? コースはおまかせの方でいいだろ?」「ああ、いいんじゃないか。リストを見てる限り、量的に足りないってこともなさそうだ」「じゃあ注文するか」 机に備え付けられた呼び出しボタンを先生が押すと、程なくしてノックの音と共にウェイターさんが入ってきた。先生がウェイターさんに人数分のおまかせコースを頼んで、薫ちゃんや葵ちゃんにデザートの注文を促す。二人が注文した後に、ティラミスと苺のパンナコッタを注文して、メニューを閉じる。確認の為にウェイターさんが注文を復唱するのを皆で聞いて、ウェイターさんがメニュー表を回収しながらにこやかに部屋から出ていくのを見送った。「おまかせコースとかどんなん出てくるねやろ? ワクワクするわぁ」「超お洒落な料理出てきたらどうしよう! 食べられるかな?」 きゃっきゃと喋り始めた二人の会話に混じりたくても、テーブルの向こう側で広がる会話になかなか上手く混じれない。皆本さんが先生の隣に座ってくれれば良かったのに、と思いながら、それはそれで先生の顔を真正面に捉えたままで食事をしなければならないということに気付いて、やっぱりそれも駄目だという考えに至った。 だってそんなのもう、絶対、逃げられないじゃない。「どうした? 大丈夫か?」「別に……何でもないわ」 先生に優しく声を掛けられて、先生の隣の位置、というのも充分逃げられないのだと思い至る。 どうしよう。こんな筈じゃなかったのに。 先生とこんなに近い距離にいるなんて、心が無防備に曝さらされているみたいで耐えられない。自分の身を守るように掻き抱いて、きゅっと身を縮めた。「……紫穂ちゃん」 そっと先生が私にだけ聞こえるくらいの音量で囁く。恐る恐る先生の顔を窺い見ると、優しい目をした先生がじっと私を見つめていた。「今日は来てくれてありがとな」 そう言って、先生が嬉しそうに微笑む。その甘い表情に目を奪われて、ドクドクと心臓が耳許でうるさく鳴り響く。 やめて。 そんな目で私を見ないで。 これ以上、先生に見つめられたら。 私、わたし――「お待たせいたしました。おまかせコースのアンティパストをお持ち致しました」 コンコンという控えめなノックの後、ワゴンと共に現れたウェイターさんが私たちの前にテキパキと料理を配膳していく。先生の甘い視線から強制的に解放されて、ホッと息を吐いた。 ――あのままあの目に見つめられたままだったなら、私はどうなってしまっていたんだろう? とくとくと鳴り続けている心臓にそっと問いかける。 目の前に運ばれてきた料理に、薫ちゃんと葵ちゃんはきゃっきゃと黄色い声を上げていて。自分の状態に気付かれていないことに少しだけ安心して、フォークとナイフを手に取った。 一品食べ終えた、と思ったら次から次へと運ばれてくるプレートに、毎回心を奪われながらお皿を綺麗にしていって。「あー美味しかった! あとはお楽しみのデザートだねっ」 ウキウキとした薫ちゃんの言葉に顔が綻ぶ。どの料理も美味しくて、弾むように食事は進んでしまって、あとはデザートを残すのみとなっていた。食事中は先生の視線がこちらだけに向けられることもなく、内心ホッとしながら食事を楽しむことができた。 五人での楽しい食事。 そう、今はこれでいい、と心に言い聞かせて、何とか普段通りの調子を取り戻せた気がする。「賢木先生、前からこの店知ってはったん?」 葵ちゃんが何気なく先生に問い掛けて、先生もなんてことない様子で返事をする。「いや? 今日の為に調べたんだ」「ふぅーん? 流石、色男は抜かりないんやね?」「葵ちゃん……ホントもう勘弁してくれ」 そんな遣り取りを横目で流し見ながら、デザートはまだかな、と意識を逸らした。折角食事に集中できていたのに、ここで先生に意識を取られてしまったら、また振り出しに戻ってしまう。皆にバレてしまわないように小さく息を吐いて、まだ運ばれてこないティラミスとパンナコッタに思いを馳せた。 すると、小さな個室に電子音が鳴り響いて、全員にピリッとした空気が走る。「……わりぃ。俺の携帯だ。ちょっと外すけど気にせず食べててくれ」 携帯を手に持って退室していった先生を視線だけで追いかけて、ホッと息を吐く。ニマニマと笑う薫ちゃんと葵ちゃんが視界に入って、どうやらそれを見られてしまっていたことに気付いた。かぁぁ、と赤くなる頬を隠すように両手で覆って、目を伏せる。何か言い訳をしなくちゃと頭を動かしてみても、空回りするばかりで何も浮かんでこなかった。 そもそも、何を言い訳するつもりなの、私。「デザートをお持ちいたしました」 やっと運ばれてきたデザートにホッと息を吐いて、薫ちゃんと葵ちゃんの意識が私から逸れたことに安心する。 今のままだと、わけのわからないことを口走ってしまいそうで、少しでも冷静になる時間が欲しかった。ウェイターさんがテーブルのセッティングを変えて、それぞれのデザートを並べていく。最後に皆本さんと賢木先生の場所にエスプレッソを給仕して、笑顔で挨拶して部屋から去っていった。「すごーい! デザートも超可愛い!」「ホンマやなぁ! 食べるの勿体無いくらい」 きゃあ、と黄色い声を上げながらもスプーンやフォークを手に取った薫ちゃん達に倣って、私もスプーンを持つ。プレートの上で綺麗にデコレーションされたティラミスと苺のパンナコッタを目に焼き付けるように眺めてから、ティラミスの角を崩した。一口分掬って口に運ぼうとしたところで、かちゃり、と静かな音を立てて先生が戻ってきた。丁寧な動作でドアを閉めた先生は苦い表情を浮かべていて。「どうした? 賢木」 エスプレッソカップを片手に持ったまま、皆本さんが眉を寄せて賢木先生に問いかける。先生は苦い顔のまま頭を掻いて、申し訳なさそうに目を伏せた。「悪い……これから本部に顔出さなきゃいけなくなった」 ゆっくりと目を開いた先生は、少しだけ目を細めて私の事を見てから、皆本さんに視線を戻す。「今から? 緊急の呼び出しか?」「ああ……管理官直々の呼び出しだ」「管理官から? 何の要件だ?」「わかんねぇ。とにかく今すぐ来いってさ」 仕方ねぇ、と苦笑いしながら、先生は椅子に掛けていた鞄を手に取ってドアノブに手を掛ける。それをじっと見守っていると、眉を八の字に寄せた先生がこちらを見て残念そうに笑った。「今日は楽しかったよ。また誘ってもいいか?」 真っ直ぐ向けられた視線に、戸惑いながらも見つめ返して、必死に言葉を探す。「え……あ……うん」「アリガト。じゃあまた明日な」 にこり、と微笑まれて、思わずぱっと目を逸らした。 きっともう、どうしたって隠せない赤い頬は、先生に見られてしまっている。「わりぃ、皆本。とりあえずここは払っとくから。また明日、会議で」「ああ。気を付けて行けよ」「わかってるって。じゃあな。薫ちゃんと葵ちゃんもまたな」 ニッと笑って、先生はドアを開けて出て行ってしまった。 パタン、とドアが閉まった後、取り残された私たちの間に、シンとした空気が走る。少しだけ空虚な気持ちに包まれて、プレートの上に乗ったデザートへ視線を移すと、角の欠けたティラミスも艶々とした苺のパンナコッタも、何だか少し、色褪せて見えた。「……呼び出しなら仕方ないね。残念だけど」 まるで私の気持ちを代弁するように呟いた薫ちゃんの言葉が、すとんと胸に落ちてくる。 そう、仕方ない。仕事なんだから、仕方がない。 自分の内に言い聞かせるように繰り返す。生まれてしまった心の隙間を埋めるように、何度も何度も。その隙間が一体何なのかなんて考える暇を自分に与えないように、掬すくったままになっていたティラミスを口に含んだ。ふわりと溶けるマスカルポーネの香りに満たされて、そっと目を閉じる。 そう。仕方がないし、私には関係のないことだ。先生がいなくなったからって、別に、何ともないんだから。 次の一口をスプーンに掬って、淡々とプレートの上を綺麗にしていく。「それにしても、こんな時間に呼び出しなんて、ばーちゃんも結構ブラックやなぁ」「……明日の会議までに、賢木の耳に入れておく必要がある何かがあったのかもしれない。賢木はある意味、管理官のお気に入りだからね」 葵ちゃんと皆本さんの話を聞き流しながら、パンナコッタの上に乗った苺を口に入れると、酸味のある果汁が口の中に広がって、少しだけ眉を顰めた。不快なのは苺が思ったよりも酸っぱかったからだと自分に言い訳をして、パンナコッタを食べ進めていく。 最後の一口まで綺麗に掬い上げて、口の中に入れた。完食して満足を得ているはずなのに、食事中に感じていた楽しさは、どこか遠くの方へ消えてしまっていて。最後に食べた一口も、とても美味しい、とは思えなかった。「食べ終わったなら、そろそろ行こうか。家まで送るよ」 皆本さんの声に、ハッと意識を取り戻して何でもない風を装って席を立つ。心の奥底に生まれた苛立ちを、これ以上膨らませてしまわないように気を付けながら、顔に笑顔を貼り付ける。美味しかったねと交わされる言葉に何となく相槌を打って、駐車場の空いたスペースにちらりと目を遣って。さっきまで先生の車が停まっていたはずの場所に、またじわりと心の隙間が広がった気がした。

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