女王様のしもべ

ピー、と電子ロックの外れる音が部屋に響く。多分来るだろうなとは思っていたが、やっぱり来たかと少しだけ頭を抱えたくなった。つかつかと歩み寄ってくる気配に半ば諦めの境地で溜め息をひとつ。「見せて、センセ」おはようもこんにちはもご機嫌いかがも無しかよ! と心の中で口には出せない突っ込みを入れながら、そろそろと頬を庇いつつ座ったまま振り返る。「よぉ、紫穂ちゃん。何の用だ?」もごもごと動かしにくい口を動かして何とか喋ると、ニヤニヤしながらこちらへ一歩ずつ近寄ってくる紫穂ちゃんと目が合って。「見せなさいよ。ソレ」うふふ、と凶悪な笑みを浮かべながらにじり寄ってくる紫穂ちゃんに、思わず逃げ場がないのに後退りしてしまう。タイミング悪くデスクワークをしていた自分が恨めしい。事務デスクがあるせいで後ろにはもう逃げられない。俺の前に来てピタリと足を止めた紫穂ちゃんは、いっそ清々しいほどの綺麗な微笑みを俺に向けた。「マスク。取らないなら、取っちゃうわよ?」垂れた髪を綺麗な仕草で耳に掛けた紫穂ちゃんに、はぁ、と両手を上げて気だるげに降参のポーズを取る。「……好きにしろよ」手を降ろして紫穂ちゃんに顔を向けると、素直でよろしい、とにこやかに笑った紫穂ちゃんが嬉々として俺の耳元に手を伸ばした。彼女の細い指先がそっと俺の耳を撫でてマスクのゴムに掛かる。繊細な手付きで外されたマスクにそろりと目を閉じると、プッと吹き出した紫穂ちゃんの声が耳に届いてジト目で睨みつけてやった。「……笑うなら笑えよ」「遠慮なくッ、そうさせてもらうわッ、アハッ、あははッ、やっだ、もーおかしッ、ハハハハハッ」俺のマスクを持ったままお腹を抱えて笑う紫穂ちゃんは、目に涙を浮かべながらヒーヒー言っている。滅多に見ない顔だから笑われても仕方がないとは思う。でも、それにしたってちょっと笑いすぎじゃねぇか。これで傷付くほど繊細にはできちゃいないが、笑い者にされたみたいで何だか居心地が悪い。腫れた頬をそろそろと撫でながら、フンと悪態づいて顔を背けると、あーちょっと待って、と紫穂ちゃんが声を掛けてきて。なんだよ、と視線を元に戻すとパシャリと写真を撮られた。「……肖像権の侵害だぞ」「先生にそんなのあるわけないじゃない」どこまで行っても女王様の発言に、さすがにそりゃひどいと泣きたくなった。すると白衣のポケットに入れていた携帯がピロンと音を立てて。「先生にも送っといてあげたわ。これで文句ないでしょ?」言われて確認すると、確かに俺のふざけた顔写真を受信している。「……何が悲しくて、こんな写真にメモリを使わなきゃなんねぇんだよ」「記念よ記念。この歳で親知らずが大暴れしちゃいました記念」「うっわそんな記念いらねぇ……」「でも事実じゃない。親知らず抜いたから腫れてるんでしょ?ソレ」そう言って腫れた方の頬を刺激しないように優しくするりと撫でていった指先はひんやりと冷たくて。俺の頬が熱を持ってるからそう感じるのか、それとも彼女が冷え性だからなのかはわからなかった。「……仕方ねぇんだよ。午前中に緊急オペ入っちまって生体制御フルで使っちまったから、自分に回せる余力が残ってねぇんだ」オペさえなければこんなことにはならなかった、と不貞腐れていると、ふわりと可愛らしく笑った紫穂ちゃんが、よしよしと頭を撫でてくれた。「いーじゃない。たまには普通人の気分を味わってみれば?」俺の跳ねた毛先を指先で遊ばせながらクスクスと笑う紫穂ちゃんは仕草だけは可愛らしいのに悪魔みたいなことを言ってのける。やっぱりこの子にはかなわねぇな、と心の中で独りごちると紫穂ちゃんは手のひらでそっと腫れた頬を包むように撫でてから、先程と同じ繊細な手付きでマスクを着けてくれた。「痛いの痛いの飛んでけ、なんてね」「……どーも」きれいに元の位置に納まったマスクを撫でながら紫穂ちゃんを見上げると、紫穂ちゃんは満足そうに笑ってからくるりと俺に背中を向けた。「用事も済んだし、帰るわね」本当にこれだけの為にここに来たのかよ! とまた心の中で突っ込みながら重い腰を上げる。「送ってやるよ。このあと仕事もねぇし」「アラ、ありがと。助かるわ。でも、その前に」パシャリ、ともう一度カメラの音が響いた。慌てて紫穂ちゃんに近付くと、紫穂ちゃんはすわすわとスマホを操作していて。「おい! 何してる! つーか何した!!!」「記念だもの。皆にも報告しておかないと」語尾にハートを付ける勢いで楽しそうに宣った紫穂ちゃんは、これまた嬉しそうにインスタの画面を俺に見せつけて。「マジかよ!!!」慌ててスマホを取り上げると、即座にコメントが付き始めたのを確認して、ガックリと項垂れる。「……皆暇すぎだろ」つらつらとコメントがついていく画面を呆然と見つめながら、紫穂ちゃんにスマホを返すとこれまた綺麗に笑った紫穂ちゃんが背伸びしてよしよしと俺の頭を撫でて。「いーじゃない。愛されてるってことよ」ふふふ、と笑った紫穂ちゃんはやっぱり可愛くて。「……そーいうもんかね」「そーいうもんよ」スマホを仕舞ってからドアに向かって歩き出した紫穂ちゃんを、慌てて車のキーを引っつかんで追いかける。「先生、送迎よろしくね」「へいへい。お嬢様」先を行く紫穂ちゃんの一歩後ろを歩きながら、まぁこういうのも悪くないかと感じている自分に、マスクに隠れた頬がちょっとだけ緩んだ。

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