ピンクグリーン・シンドローム

歩いている間、先生とは一言も喋らなかった。何か話そうとしても、全く言葉が出てこない。行き慣れた筈の先生の研究室への道も、見えないせいかすごく長く感じる。先生の怖い雰囲気はもうなくて、バベルに来たときと同じように、私を気遣いながら歩いてくれているのがわかる。先生の研究室に無事到着して、先生が私の両手を取って、ゆっくりと誘導する。恐らく診察用の椅子に座らされたんだと思う。視力を失ってから、全部全部先生に身を任せて動いてる。普段の自分からじゃ考えられなくて、自分が自分じゃないみたい。恋をして、こんなにも人は変わるのか。多分、先生を好きになる前の私なら、こんな風に素直に身を任せたりなんてしなかったはず。それから、こんなに弱気にもならなかった。わからないことばかりで、苦しんだりすることもなかった。胸が切なくて、嫉妬に苦しむことだって、知りたくなかった。先生のことをもっと知りたいだなんて、思いたくなかった。ずっと掴んだままの手に、ぎゅっと力を入れる。「…紫穂ちゃん」「…なぁに?」「…泣いてたの?」包帯濡れてる、と先生の手がそっと目許を撫でる。壊れ物を扱うような手付きに、また、目が熱くなりそうになって、首を振って何とか誤魔化す。「…ごめんな」すっと、先生の気配が近くなる。声の位置からして、私の前に膝をついたのかもしれない。目許を撫でていた手が、頬をそっと滑る。先生の、あたたかくてゴツゴツした手のひらが、気持ちいい。触れられているだけで、心が熱くなる。「俺のせいで、こんな目に遇わせて、ごめん。」聞いているだけで苦しくなるような先生の声。先生の手がするりと私の頬を撫でて離れていく。「…私が、勝手に箱を開けたからよ」「それでも!俺が開けるように促したも同然だ。」追い詰めるように言う先生に、何と言えばいいのかわからなくて、とてももどかしい。何だかんだ言って人一倍他人が傷付くことを恐れている人だから、今回の事態を招いてしまったことが許せないんだろう。でも、今回は。完全に私が冷静じゃなかったから起こった事故で。「先生は、悪くないよ」私が送り主の女に嫉妬したから、起こってしまったこと。普段なら絶対にしない行動を取ったのも、全て嫉妬に狂ったせい。「今日のことはね、本当に私が悪いの。反省してる。」私には、嫉妬する権利すらあるのかどうかもわからない。先生にとって、私の存在は可愛い妹みたいなものかもしれない。少なくとも、怖くて前に進めない私には、先生の隣に立つことはとてもできない。「…紫穂ちゃんは悪くねぇんだ。俺がもっと、気を付けてれば」「気を付けるって、何を?爆発物が突然届くなんて誰も思わないわ」「そうだけどっ!…少なくとも、もっとあの女を警戒していれば、ここまでの事態は防げたかもしれねぇ」俺が甘かったんだ、と呟く先生に、悔しい気持ちが沸いてくる。それだけじゃなくて、先生の口から女の話が出てくることへの嫉妬心が、ふつふつと顔を出す。今日一日、私のなかで乱高下を繰り返していた感情の何かが、プツンと音をたてた。「…あの女って、だれ。」「え?」「センセイの今の恋人?随分厄介な女に手を出したのね」ガラガラと、何かが崩れていく音がする。扱いきれない恋心なんて、捨ててしまえと腹黒い感情が叫んだ。「そんな女が居るのに、私のこと抱き締めるなんて、ホント節操なしなのね」先生が息を飲む気配が伝わってくる。「私は目だけで済んだけど、先生は殺されるんじゃない?その女に」先生の手から両手を離して、自分の身体を抱き締める。いろんなところが痛いけど、見ないフリをしていればきっと大丈夫。私は、元の私に戻るだけ。「やっと望んでた修羅場が見られるんじゃない?バベルの女好きESPドクターさん?」綺麗に笑えただろうか?包帯が邪魔して、表情は隠れてしまっているけれど、口角はしっかりと上げられた。だから、きっと、大丈夫。先生、好きだったよ。私はこれから、人生最大の嘘を吐く。「もう私に関わらないで。貴方のことがきら」唇に、あついものが押し付けられて、言葉が続けられない。背中に腕を回されて、さっきの比じゃないくらいにきつく抱き締められる。なに、なんなの、一体どうなってるの。驚いて身体を硬直させていると、唇に触れているものが角度を変えて何度も押し付けられた。何とか逃れようと頭を動かすと、頭を手で固定されてしまって、余計に身動きが取れなくされてしまう。ペロリ、と唇を生暖かいものでなぞられていく。必死に唇を閉じて抵抗していると、カプリ、と下唇を食まれてもう一度優しく唇を舐められた。あまりに官能的な動きに思わず口を開けてしまって。その隙を逃さないとでも言うように生暖かいものが口の中へと侵入する。丁寧に歯を舐められて、ぬるりとしたものに、口の中を犯されていく。逃げようと舌を引っ込めても、執拗に追い掛けてくるそれは、まるで別の意思を持った生き物のように私の中で蠢いている。息が続かなくなってきて、苦しさを訴えるように先生の胸をドンと叩く。すると、まだ離れなくないとでも言うように、ちゅっと唇を吸われて、やっと先生が離れた。「ハァッ、ハッ、…何する、の」「…泣きながら、そんなこと言うなよ。紫穂」「質問の答えになってない!」何とか息を整えながら、もう一度先生をドンと叩く。その手を掴まれて、先生が音を立てて指先を吸う。「気付いてないのか?泣いてるよ、紫穂ちゃん」頭を抱え込むように、ぎゅっと抱き締められる。「な、泣いてなんか、ないわ」「ほら、包帯、こんなに濡れてる。」「もう、ほっといて!」「心に嘘は吐くなよ」ドキリ、とした。先生の凛とした言葉が、耳に届く。透視られてもいないのに、嘘を見抜かれてしまったようで、緊張して身体に力が入る。緊張を解すように、優しく背中を撫でられて、身体中がゾクゾクした感覚に支配されていく。「好きだよ、紫穂」耳許で息を吹き込むように囁かれて、身体が震えた。抵抗しようにも、身体が上手く動かない。先生にしなだれかかるような体勢になってしまったことに、更に羞恥を煽られる。「…ウソよ」「嘘じゃねぇよ」「…誰にでも言ってるんでしょ」「信用ねぇな、俺」くつり、と先生が笑う。だって、だって、展開がおかしい。私は恋を終わらせるハズ、だったのに。「誰が何と言おうと、俺は、紫穂が好きだよ」先生が私の頬に口付ける。素直に受け入れてしまっている自分と、嘘だ、信じられない、と叫んでいる自分が入り交じって思考がぐずぐずになっていく。「今回の事件の犯人は、俺の顔見知りには違いねぇけど。そういう間柄じゃねぇぞ」勘違いすんなよ、という先生に、ぎゅっと胸が潰れそうになる。自分の手で終わらせようとしていた恋を、先生が無理矢理暴いて花を開いていく。どうしよう、嬉しい。のに、素直になれない。「だから、何だって言うのよ。私には関係無いわ」「嫉妬してたくせに?」「嫉妬なんかしてないッ!」「じゃあ俺が誰と付き合おうと関係なくね?」気になるんだろ?と耳許で囁かれて、ぎゅっと先生の服を掴む。「素直になれよ、紫穂」「…素直になったら、何だって言うのよ」「俺と付き合おうぜ?」「馬鹿じゃないのッ?」ふざけてるとしか思えない。なのに、嬉しい、嬉しいと思ってしまっている自分。なんなの、私は一体どうしたいの。「透視たわけでもないのにわかった風に言わないで!」「透視なくたってわかるときはわかるもんだよ、紫穂ちゃん」現に君はずっと俺に抱かれてる、と先生が言う。腹が立ってまた先生をドンと叩く。「透視たわけじゃないんだから、先生を信用できないわ」「透視えてたって、俺たちも普通の人間なんだぜ」「…何が言いたいの?」「普通に恋愛してる、男と女だってこと。」先生が私から離れて、そっと私の頬を撫でる。その優しい手付きに、目許があつくなって、耐えきれなくなった涙が頬を伝った。「泣くなよ、紫穂」頬に伝う雫を、先生が次々に吸いとっていく。「泣かれるとどうしたらいいかわかんなくなる」切ない声で、ぎゅっと抱き締められて、胸が張り裂けそうになる。いいえ、もう、とっくに弾けてしまっているんだわ。そろそろと先生の背中に手を回して、力を込める。「勝手に出てくるんだもの。止め方がわからないのよ」先生の胸板に額を寄せて、すりすりと甘えてみせた。「涙腺もバカになっちゃってるのよ、きっと」もう、どうしようもない。ここまで来てしまったら、受け入れるしかない。その先に何が待っているのかはわからない。でも、私は、やっぱりこの男が好きなんだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました